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床屋と図書館 その13

 藤田先輩から受け継いだ短ランとドカンは、お母さんやお父さんに見つかったら大変なので押入れの奥の方にしまいこみました。そして中2になってからも普通の学生服を着て登校しました。
 困ってしまうのは部活の時間です。
 ブラスバンド部には、卒業生が気まぐれに顔を出して指導をしたり激励をするという伝統がありました。特に夏のコンクールや秋のコンサートの前などは頻繁にやってきます。
 もしも藤田先輩がやってきた時に短ランやドカンを着用していなかったら確実に怒鳴られることでしょう。真文は悩んだあげく、部活時には体操着と学校指定のジャージに着替えることにしました。「どうして?」と変な顔をする同級生や先輩には「この方が楽だから」と説明しました。
 
 部活帰りはいつもジャージ姿のまま図書館に寄りました。
 2階の一番奥の本棚の陰の、小学生のころからずっと自分だけの秘密基地のように思っている空間で、好きな本を読んだり、本棚の隙間から大人たちの様子を伺ったりしていました。

 中2の夏休みのある日。
 部活が終わっていつもの通り図書館へ直行しました。しかし、この日は秘密基地ではなく、学習室で夏休みの宿題に取り掛かりました。
 勉強は家や学校よりも学習室でやるに限ります。
 学習室には真文と同じ中学生のような子供もいますが、高校生や大学生くらいの人たちが大半で、中には何かの資格を取得するための教本を開く大人もいます。
 ペンを走らせる音やページをめくる音が、あちこちから異なるリズムで聴こえてきます。その音に耳を澄ませていると、自分がまるで年上の大人たちのように賢い人間になった気がして自然と勉強がはかどるのです。

 夏の夕暮れの学習室には大きな窓から夕焼け色の光が差し込んでいました。それを薄いレースのカーテンが優しく受け止めます。強めに吹くクーラーの風がレースのカーテンを時々揺らします。汗で湿った真文の体操着やジャージのズボンもさらさらと乾いていきます。

 真文は数学のドリルに取り掛かりました。
 数学は真文がもっとも苦手とする科目です。
 数学は誰が解いても正解がひとつです。誰かによってすでに解決済みの問題を、いまさら自分が頭を悩ませて解かなければならない意味がわかりません。というのは屁理屈で単に真文は計算が苦手です。それ以前にアラビア数字が嫌いです。漢字を見ると自然と心が踊るのに、アラビア数字はあまりにも無機質で何の親しみも感じられません。
 真文が好きなのは、国語の「この時の主人公の気持ちは?」という問いや英文和訳です。問われた途端、頭の中がみるみる動きだし、いろんな空想を楽しむことができます。作文も好きです。和文英訳は単語を暗記している必要があるので大変ですが上手にできた時の満足感が高いです。
 苦手な数学のドリルは集中力がつづきません。
 勉強に適した学習室の雰囲気をもってしてもなかなか難しいのです。そういう時、真文は、学習室を出て秘密基地で気分転換をします。
 
 日本の作家別本棚の「よ」の棚から吉本ばななの『TSUGUMI』という本を引っ張りだしてから秘密基地へ向かいました。読みたい本は基本的に貸し出し手続きを行なって家で読むのですが、学習室での勉強の合間に少しずつ読み進める本、というのも真文は決めてあって、この夏休みは『TSUGUMI』です。
 クーラーで冷えた気持ちのいい壁に背をつけて『TSUGUMI』の続きを読み始めました。10ページほど後ろに左手の親指を差し込み、ここまで読んだら学習室に戻ると決めていました。
 数ページを読み進めたころ、近くに人の気配を感じました。あたりを見渡すと隣の本棚に茶色いジャケットを着たおじさんがいました。おじさんとはいっても真文のお父さんよりは若いようですが、真夏に長袖のジャケットなどを着ている大人は、それだけで真文の目には立派な大人に映ります。隣の本棚には難しそうな法律関係の本が並んでいます。なかなか人が近づくことのない本棚なのですが、あのおじさんなら法律関係の本に興味があってもおかしくなさそうです。

 真文はふたたび『TSUGUMI』の世界に没頭していました。
 指を差し込んだページが近づいてきて、もっと読みたい自分と学習室に戻らなくてはいけないと思う自分が静かに葛藤していました。

 その時、声をかけられました。 
 顔を上げると、茶色いジャケットのおじさんがにこやかに佇んでいました。おじさんがなんといったのか聴こえなかったので真文は首をかしげました。

「はい?」
「それ『TSUGUMI』でしょ?おもしろいよね」

 おじさんが真文の手にある本を指さしながらいいました。

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