見出し画像

床屋と図書館 その6



 
 4月になり、真文は5年生になりました。
 5年生になって憂鬱なことがひとつあります。それは、4年生の時は放課後の校庭を優先的に使えるのが水曜日だけでしたが、5年生になると月曜日と木曜日の2日間に増えることです。中野や羽賀たちと週に2回もサッカーをしなければなりません。
 真文はボールを扱うのが苦手です。しかも、大人数でやるスポーツも苦手です。自分が失敗すると自分以外の人にも迷惑がかかるので緊張してしまうのです。
 
 しかも5年生になったばかりのある日、真文は中野から「オマエのボールの蹴り方はトーキックだ」と指摘されました。 

「トーキック?」
「トーっていうのはつま先のこと。知らねーの?」
 
 真文の知らない英単語を、頭の悪い中野が知っていることに小さな屈辱を覚えました。

「遠くに蹴りたい時はトーキックでもいいけど、基本的にはインサイドで蹴るもんだぜ」
「インサイド?」

 またです。

「ここ。ここがインサイド」

 そう言いながら中野はふくらはぎのよく発達した右脚を持ち上げて、足の内側の土踏まずのあたりを指差しました。
 
 ボールをまっすぐ蹴りたいのに、わざわざ足の内側で蹴る必要があるのでしょうか? 真文には疑問です。「ちょっとやってみろよ」と命じられて右足の内側で思いきり蹴ってみましたが、ボールは左の方向へ飛んでいきました。当然だと思いながら急いでボールを拾って戻ってくると「もっと足首を開いてまっすぐ蹴るんだ」と言われました。だからまっすぐ蹴りたいならつま先でいいじゃないかと思いながらも、もう一度インサイドで蹴ってみましたが、結果はやはり同じです。

「まったくオマエはダメだなー。ちゃんと練習しておけよ」

 それ以来、真文はサッカーがますます嫌いになりました。それを週に2回もしなくてはならないなんて地獄です。
 
 その日も、サッカーをしていました。
 「帰りに金子さんのところへ行ってきなさいね」とお母さんがお金を持たせてくれたので早めに上がりたかったのですが、真文が抜けると両チームの人数に偏りが出てしまうので言い出せませんでした。

 5時のチャイムが鳴って解散すると、真文は一目散にバーバー金子へ向かいました。閉店時間は午後5時15分です。

「ああ、いらっしゃい。もう閉めようと思っていたんだよ」

 店内には、金子のおじさんがひとりでした。

「ダメですか?」
「いいよいいよ座って」

 おじさんは真文を一番奥のカット台に座らせました。

「走ってきたの?店ん中、暑い?」
「大丈夫です」
「汗かいてるよ。今、拭いてあげるから」
 
 そう言っておじさんはティッシュペーパーで真文の首の後ろを拭ってくれました。
 
 店内には甘じょっぱい匂いが漂っていました。店の奥の暖簾の向こうは台所なのでしょうか。肉じゃがか、すき焼きか、金子のおばさんが夕飯の準備をしているのでしょう。
 ラジオからは『子ども電話相談室』が流れていました。
 真文はそれを耳にするのは初めてで、これがあの『子ども電話相談室』か、という気持ちになりました。
 子供電話相談室といえば「きりんの首はなぜ長いの?」「象の鼻はなぜ長いの?」といった質問が有名です。それは真文も知っていました。だけど、きりんの首や象の鼻が長い理由を真文は知りませんが、知りたいと思ったことなど一度もありません。この世にそんな質問をする子どもがいるなんて、同じ子どもとして不思議な気分です。世界には象の鼻やきりんの首の長い理由が気になる子どもと、気にならない子ども、どちらが多いのでしょうか?

 ですが、真文も動物は好きです。
 どのくらい好きかというと、将来は獣医か、ムツゴロウ王国の職員になりたいと考えているほどでした。
 8チャンネルの『ムツゴロウと愉快な仲間たち』は絶対に観ます。この日ばかりはお父さんがプロ野球中継を観ようとしていても譲ってもらいます。真文のムツゴロウさん好きは家族内でもよく知られているので、お父さんも簡単に譲ってくれます。もしも自分のお父さんが、去年急死した横山理髪店のおじさんだったら絶対に譲ってくれないでしょう。それどころか一緒にプロ野球を観戦することを強制するに違いありません。真文は自分のお父さんが横山のおじさんでなくて良かったと心から思います。
 
 もしも、ムツゴロウさんがお父さんだったらどうでしょう?
 たくさんの犬や猫に囲まれて、肩には王蟲、大きな庭で熊さえも手名付けて暮らすムツゴロウ王国での生活は忙しく、中野や羽賀たちとサッカーをしている暇などないでしょう。
 ムツゴロウさんの息子としてテレビに映ることもあるかもしれません。番組を観た人から「子どもなのに馬に乗れてすごいですね」と手紙が届くかもしれません。

 自分のお父さんがムツゴロウさんだったら良かったのに!

 去年の年末まで、真文はそう思っていました。
 
 ですが、年末に放送された『ムツゴロウと愉快な仲間たち』はとてもショッキングでした。王国で飼育している羊の体調を調べるために、ムツゴロウさんがその羊のおしっこを飲んだのです。まるで森に湧き上がった綺麗な水をすくうように両手を皿にして「羊の体調を調べるには、これが一番なんですよ」と、どこか嬉しそうに口をつけていました。
 
 この日から、真文はムツゴロウ王国で働きたいという夢を一時保留としました。お父さんとお母さんには相談せず、真文の心の中だけでそう決めました。大人になるまでにはまだ時間がありますから、羊のおしっこを飲んででもムツゴロウ王国で働きたいのか、じっくりと考えてみることにしたのです。

「羊のおしっこを飲むと本当に羊の体調がわかりますか?」
「大人になったら羊のおしっこを飲めるようになりますか?」

 ラジオを聴きながら、真文はそんな質問をしたら『子ども電話相談室』は正しい答えを教えてくれるのかどうか考えていました。
 その時、すでに真文の髪を切り始めていた金子のおじさんの手から、前回と同じく、櫛がぽろりこぼれ、真文の体を覆う真っ白なケープの上にファサっと落ちてきました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?