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No.6/挫折と努力

僕は山形で生まれ山形で育った。
もちろん県外の強豪校にも練習参加をした。
その中でも監督の熱い思いと地元の学校で全国で活躍したいという思いから山形の米沢中央高校に進学を決めた。

入学前に米沢中央高校のイメージがあった。
自分が中学2年生の時に初めて全国大会を生で見に行ったのが米沢中央高校だった。
地元と言うこともあり応援していた。

県大会決勝は米沢中央vs山形中央の中央ダービーだった。
その時の記憶は明確に覚えている。
米沢中央に知っている先輩もいたので勝手に僕もテレビに張り付いていた。
中学のクラブチームの仲間の5人くらいで見ていた。当時の米沢中央はまだ全国に出場経験が無かったので応援もすごく盛り上がっていた。
見ている僕たちも米沢中央を応援していた。
その代から米沢中央は県外選手が来ていてボランチの選手は素晴らしいプレーをしていた。
そして優勝し監督と選手が男泣きをして喜びながらの全国大会初出場だった。
僕も見に行った全国大会では1回戦で東福岡に負けてしまった。
そのくらいのイメージだった。

そして米沢中央高校に入学した。
僕はすぐ心を折られた。
それは先輩とのレベルの差だった。
もちろん技術的な差もあったが1番は戦術を理解するというサッカーIQの差だった。
監督は現役時代は水戸ホーリーホックでプロサッカー選手をしていた。
監督の伝える戦術ひとつひとつが今までの僕のサッカー人生には無いことばかりで理解するのがやっとだった。

そんな中で県外組の同年代の子たちがトップチームで試合に出たりしていた。
僕は心の底から悔しかった。

プロになる。
海外で活躍する。
日本代表になる。

そのために高校でスタメンでバリバリ活躍するイメージで入った僕はトップチームのベンチ入りすら出来なかった。
トップチームとトップサブの2つのチームがリーグ戦を戦っている感じだった。
当時は部員がとても多く1年生はなかなか出れなかったが僕ともう1人の子が2つ目のチームのリーグ戦に呼ばれた。
これはチャンスだ!
僕はがむしゃらに走りまくった。
先輩についていくのがやっとだったがボランチとしてフル出場をし、チームも勝った。

そんな中で1年生だけのルーキーリーグが始まった。僕はトップ下やボランチだった。
守備やヘディングが苦手だった僕はトップ下が多かった。
県外組も多かったので攻撃陣は特に個性豊かだった。
自分の武器は何か、
チームにどんな色を加えることが出来るか。
改めて考えた。

僕は身長があったのでまずはボールを失わないこと。キックに自信があったのでロングボールやスルーパスでゲームを作ること。
最初は良かった。
しかし相手が上のチームになればなるほどどこに動けばいいか、自分のプレースタイルを変えた方がいいのか自分が分からなくなった。
また振り出しに戻った気分だった。

そんな中で大きな存在だったのが僕たちと一緒のタイミングで高校のコーチになった潤さんだった。
潤さんは現役時代アルビレックス新潟シンガポールでしていた。

潤さんにはサッカーへの取り組み方からプロになるためのメンタル。ひとつひとつ熱く丁寧に教えてもらった。
そこから誰よりも上手くなるため本格的に自主練も始めた。
今までのように得意な事だけではなく苦手な事にも取り組んだ。

少しずつだが成長は感じた。
ルーキーリーグは勝てる時ばかりではなかっけど勝ち負けよりも試合までの準備や泊まり遠征の時の仲間との時間。
本気だからこそ日々の練習でぶつかり合うこと。
素晴らしい濃い1年間を過ごせた。

2年生になり試合も多くなった。
遠征の帯同メンバーには入ることは多かったがなかなかインターハイや選手権のメンバーには最後の最後で入れなかった。
もちろん練習も自主練も誰よりもしていたつもりだ。

ふと自分に聞いた。
「お前はこのままでプロになれると思うか?」
プロどころか自分の高校の試合にすら出れない。
どうしたらいいか。
何回も何回も考え行動し練習した。
朝練をして学校に行き部活をして夜の自主練。
毎日帰るのは12時近かった。
オフの日もグランドに行き潤さんにメニューを作ってもらい5人くらいで練習をした。
土のグランドでボロボロのボールをひたすら蹴り続けた。

なかなか評価されない…

そんな時ドイツ留学のサイトを見つけた。
最初はもちろんどうやって行くのかお金はどのくらいかかるのか何もわからない事ばかりだった。
地元でドイツに行っていた先輩がいてたまたまその人がその時に地元にいて
会うことになった。

いつも親に言われいたことがある
「熱い気持ちは周りを動かす」
最初は信じていなかった。
本気でドイツに行きたいと思った僕は行けるかもわからないのに調べた。
監督にはもうドイツに行きます!
もう決めました!くらいの勢いで言いに行った。
コーチはめちゃくちゃ反対してた。
でもこの気持ちは曲げたくなかった。
やめるタイミングはたくさんあった。でもここで諦めるのは簡単だけど何をしても僕は変わりたかった。
親もそれを見ての決断かは分からないがドイツに行かせてくれた。

高校2年生の冬
これが僕の分岐点となる…

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