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自己との哲学問答。あるものはある、ないものはない

若かりし頃メンターと慕っていた、今は亡き先輩経営者から言われた言葉で、ずっと頭にこびりついているのは、「40歳になったら哲学を持て。」です。40歳になった当時、自分の哲学とは何か?と自問自答を繰り返しましたが、大切にしたい価値観や事業を行う上での理念、人生を使う使命は見えていましたが、一言で哲学と言えるものははっきりとしていませんでした。50代も半ばを過ぎた今になって、ようやく、それが体の中からにじみ出してくるような感覚を感じるようになりました。
そもそも、哲学と言う言葉の定義が曖昧で、受け取り方によって、人それぞれだと思っています。辞書を引いてみると以下の通り。とても難しい概念です。

【哲学】
人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観。
▷ ギリシア philosophia (=知への愛)の訳語。「哲」は叡智(えいち)の意。

在り方の探求

私がメンターから40歳になれば持て。と言われた哲学とは、学問でも人生観でもなく、どちらかと言うと、自分のあり方を支える軸というか、世界を俯瞰して見渡すパラダイムに近い視点、視座の様に感じていました。なので、ロジカルな思考から積み上げられたものと言うよりは、感覚的に身に付いたものこそが哲学になるのだと今も思っています。

長い間、自分の哲学が明確に見出せなかった理由の1つに、(辞書の定義の中にもありますが)近しい概念の「あり方」を熱心に探求していたからではないかと思っています。経営者として全く無知だった私はとにかく経営に関する基礎知識を身に付けようと必死になって学び続けました、そこで見つけたインサイトは「事業は『あり方』から始めるべきだ」と言うことでした。特に、原理原則型のマーケティング理論を学ぶ中で、その重要性を痛いほど感じて20年位前に「正しいことがしたい。」と柄にもないことを言い出して、それから全てが変わりました。吉田松陰先生の「至誠」の概念や、フランクリン・R・コヴィー博士の「人格主義」やインサイド・アウトの考え方に人生が変わるほどの強い影響を受けました。

理に叶う自分へのパタンランゲージ

そのような流れがあり、経営者として生きていく上でのゆるぎない基準点を見出したことで、自分自身の内面に対する問いかけは、全て「あり方」に帰結するようになりました。要するに、当たり前のことを当たり前にできる、理に叶うように自分に誠実な人間になりたい。というのが、私が人生における最も強い願望であり、価値観になりました。しかし、それは事業を行う上で見出したインサイトであり、常に対人関係、人との関わりの中での基準に過ぎません。哲学にはなりえないけど、自分にはそれしかないというのが、長年私が哲学を見出せなかったと口にしてきた所以です。

「あり方」を軸にした自分なりの基準を見出してから20数年が経ち、その間、数多くのな挑戦と失敗を繰り返してきました。初めて法人を立ち上げて、代表者になった時は、これから先どうなることかと期待と不安に胸をドキドキさせたものですが、大きな挑戦も繰り返し行うと、パターンが見えてきて平常心で行えるようになります。30歳過ぎに一文無しの徒手空拳、単なる職人から起業して、気がつけば、今では4つの法人を立ち上げて運営するようになっています。経験を積み重ねて、あり方がしっかりとあれば、それなりの成果を手にすることが出来るのだと漸く思えるようになりました。

クリストファー・アレグザンダー

あるものはある、ないものはない。

勿論、全てが思い通りになった訳でも、順調に進んでいるわけではありませんし、もっと大きな事業をできたのではないかと思うこともあります。しかし、それでも飯を食うことにさえ困っていた、中卒で無職、仕事の全く出来ない落ちこぼれた若者だった頃の自分と比較すると、ものすごい変容を遂げたものだと未だによく思います。
そして、今になって日々感じるのは、「あるものはある、ないものはない。」との事実というか、真理というか、私の世界への向き合い方です。これが私の哲学なんだ、と最近ふと思うようになりました。哲学を見出すべき歳だった40歳から15年を過ごして、漸く自分の身体から滲み出してくる哲学を見出せたような気がしています。

イソップ寓話にある、神様から金の卵を産むガチョウを貰った農夫は、すぐに豊かで贅沢な暮らしに慣れて、1日に一個の金の卵では満足出来なくなり、ガチョウの腹を割いて一度に沢山の金の卵を手に入れようとしてしまいます。人の欲は深く際限がありません。そしてすぐに環境に慣れて有り難さ、感謝の気持ちを忘れてしまいます。全てがあるのに何を欲しがるのか、あるものはあるし、無いものはないと知るべきです。ちなみに、哲学者のパルメニデスが私と同じことを感じ取った様です。(笑)

目に見えなくても言語化しなくてもあるものはある

最近、コロナも収まって全国に講演やセミナーに行く機会が戻って来ました。様々な人達に、まだ実害は顕著に表れていない、しかし予防的に見れば喫緊かつ重要な課題を問題提起して、その解決策について話し合います。そんな際、前向きな話が途切れてしまうのは大概、もう少し時間があれば、もう少し経済的に余裕があれば、もう少し若ければ、と比較対象が曖昧な程度の差を引っ張り出して、根本的な問題から目を背ける瞬間です。一体、何を待っているのか、待っていたら変わるのか?あるものはあるし、無いものはない。何故自分が持つリソースに向き合って前に進もうとしないのか?必要を感じたなら何故、それに従って論理的思考で行動しないのか?との違和感を感じることが頻繁にあります。

1+1=2、1-1=0との答えが成立する、同じである事を前提に人は人とコミュニケーションを取ります。この程度の論理的思考が共有出来なくては一緒に時間を過ごしても無駄なだけです。もしくは、その計算式が違うと思う理由と根拠を示して人それぞれ違う見方があるのを伝えて貰えれば有意義な時間になる可能性があります。こりゃダメだ、と感じるのは計算式は合っている、けど受け入れられない。その理由は明確に示さないし、説明も議論も出来ないとの態度です。それでも、人はそれぞれ感じ方が違うので致し方無いし、良いのですが、その非論理的でネガティブな選択に保身や利己主義、面倒から逃げる姿勢が透けて見える事が少なからずあります。言葉に出さなくてもあるものはあるし、無いものはないのです。

孔子

哲学のある人生

こんな風に、自分の中の価値観と言うか判断基準と合わせて世界を眺める視座と視点が「あるものはある。無いものはない。」との感じ方に帰着する様になってから、随分と世界がクリアに見える様になりました。同時に、受け入れ難かった不条理や矛盾も受け入れられる様になった気がします。それが良いとか、悪いとかではなく、そういうものだ。とのフラットな認識です。哲学に沿って問いを持ち、考え、判断し、行動し、結果を得る様になって、思い通りに上手く行く事も、思う様な結果を得られなくとも、あるものはある。無いものはない。と腹に落ちて納得出来る様にもなりました。無いものねだりをしなくなり、随分とスッキリ生きられる様になったと思います。

それでも、今になってもまだ、メンターが言っていた様に、確かに40歳の頃に哲学を持ててたら良かったかも、と思うところはあります。
それもやっぱり、あるものはある、無いものはない。時間と共に見えてくるものがあるし、いくら経験を積んでも知らない事だらけ、世界は広く際限がない。それで良いのだ。色即是空、空即是色。不条理も蹉跌もなく、あるものはあり、ないものは無い。哲学を持って生きることの入り口が見えてきた気がします。

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問いを持つことから仕事を考える。実務者向けの研修を行なっています。


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