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無知は迷惑、思い込みは罪

私は毎朝、アイドル犬チャックと散歩に行くのが日課です。娘が小学生の頃、知り合いのところで仔犬が生まれたと聞きつけて、一緒に見に行った際に「私がずっとお世話するから飼って〜。」と駄々をこねられて、どーせ自分で面倒見る事になるだろう、と予測をしながらも娘の願いを聞いて新しい家族を受け入れる事にしました。想定通り、暫くして朝の散歩は完全に私の係となって、それからかれこれ14年間、毎朝欠かさず伊川の河川敷に散歩に行く習慣が身に付きました。緑豊かで良い季節になると白鷺やセキレイが舞う河川敷での散歩は春には桜が咲き乱れるし、冬は霜が降りて真っ白になって凛とした気分を味わえます。いろんな動植物に触れられる日常の中に四季を感じられる良い時間になっています。

伊川河川敷

季節を感じる豊かで身近な環境

河川敷を散歩していると季節ごとに様々な動物に出会います。様々な鳥や虫、夕方には蝙蝠も乱舞します。その他にも蛇や蛙、珍しいところではモグラまで、河川敷の生態系は複雑で変化に富んだ面白い環境を形成しています。そんな意外と楽しいお散歩コースを歩いていると先日から立て続けにアイドル犬チャックがうれしそうに反応して亀を見つけては戯れつきます。チャックの牙では緑亀の硬い甲羅には歯が立たず、咥えては投げ出して遊ぶだけではありますが、かわいそうなので私が取り上げてよく川に戻してあげます。

春の伊川河川敷

亀の産卵は陸でする

以前からチャックが見つけた亀を助けてあげることがしばしばあるのですが、最近になってやたらその機会が多く、なんだか不思議に感じていました。そこでふと思い出したのは、6月から7月にかけて屋久島でウミガメの産卵を砂浜で見れるとの話です。考えてみれば大体亀は川の中、もしくは川のほとりに住んでいるはずなのに河川敷を上ってきて私たちが散歩する道端にいること自体不自然で、ひょっとしたらウミガメのように砂浜ならぬ土の中に産卵するのではないか?とふと思い当たりました。早速、Google先生に確認してみると、やっぱり私の勘は当たっていて、ミドリガメも梅雨前の今の時期に入ると水から上がってきて土の中に卵を産みつけるようです。

亀と戯れるチャック

思い込みは大迷惑

そうやったんかー、と自分の無知というか鈍感さを恥ずかしく思うとともに、今までわざわざ川に(恩着せがましく)戻してやって「鶴の恩返しならぬ亀の恩返しとかないかしら?」なんて得意げになっていた自分はあまりにも迂闊で、亀にとってはいい迷惑だったのだと気づきました。よくよく後で思い返すとチャックに見つけられた亀は大体、しっぽの方から半分ぐらいを地中に体を埋めており、完全に産卵の体勢をとっておりました。もっと早くに気づいていても良さそうですが、毎年、度々出くわすし、(多分)産卵を終えて川に戻ろうとしていた時もあったので、亀も結構、陸を散歩するのか、なんて勝手な思い込みを持ってしまい、今日まで命を張って子孫を残す崇高な営みをしていると全くもって気付きませんでした。

思慮と気付きへの心配り

ちょっと考えればすぐにわかりそうなことなのに、亀が卵を産んでいることに気づいてあげられずに、亀が苦労してわざわざ土手を這い上がってきたにもかかわらずまた川の中に連れ戻すと言う暴挙を繰り返していた私は申し訳ないというか反省することしきりで、無知と思い込みが引き起こす悲劇を自らが手を下したことで、改めて自分を普段から厳しく戒める必要を強く感じさせられました。もう少し思慮を深くすること、物事が発している何気ないサインに気づくように気を配れる様にならなければなりません。亀の事に限らず、これができなければこれからも何度でも思い込みと無知で同じ類の過ちを繰り返すことになってしまいます。

産卵中の亀とチャック

しくじりは思い込みから

これまでの50数年の人生経験の中で私が無知と思い込みに端を発して失敗した、しくじった事は枚挙に暇がありません。私の失敗談を挙げるとキリがないほど出てきますが、最も思い込みをひっくり返してパラダイムシフトしたのは、実は自分自身に対する思い込みです。セルフイメージという言い方もしますが、自分自身に対する思い込みは少し手を伸ばせば届く目標を設定して、自分ができると強くイメージことで大きく達成能力が高まります。しかし、その反面、どーせ無理、との自己限定や無謀な試みに突っ込んでいく過信など、上下どちらに振りすぎてもろくなことになりません。古代中国の賢者、老子の言葉に「知人者智、自知者明」(人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり)ともありますが、適切に、完璧に己を知る事が明智を身につけで、あらゆる失敗を回避して悲劇を引き起こさない要諦なのかも知れません。とにかく、若い頃の私は自分を知らずに失敗を繰り返していました。

完全に産卵体勢の亀

偏見を自覚して常識を疑う

上述の老子の時代から言われている様に、思い込みによる危うさは実は誰もが知っていて自重、自戒しようと気にかけます。しかし、思い込みとは自分の中の正義になってしまったりするので、思い込みを持ってしまっている事にさえ気付けない事の方が圧倒的に多いのが現実だと思うのです。昨日、noteに内藤大悟さんが思い込みによる失敗談というかパラダイムシフトの例を挙げられておられましたが、私達が持つ常識こそが思い込みの際たるものだと常日頃から認識する必要がある様に感じました。住う環境、地域や国、働いている業界、宗教や会派、人が営みを持つあらゆるところには固有のパラダイム=常識が作られており、その多様性を認める事からしかコミュニケーションは生まれないと思うのです。常に思い込みを持っていると自覚すること、偏見を捨ててまず、相手の常識を観に行き、聴いて理解に努める事。そこからしか新しい時代への扉は開かない気がしています。大悟さんのnoteもご参考ください。

常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。
by アインシュタイン

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原理原則に則る事で多くの人に受け入れられ、応援されるパラダイムを見つける研修やってます。

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