見出し画像

もうダメだ。圧倒的絶望から救う「言葉」

私はあまりTVを見ない方ですが、タイミングが合えばニュース番組くらいは見ます。そこで流れてくるのは毎回、不条理に苦しみ、圧倒的な絶望を感じて人を殺めたり、自身で命を断つとの悲しい出来事。昨日も老人が障害を持つ妻を車椅子ごと海に突き落としたとのニュースを聴いて胸を痛めました。残り僅かになった人生に対して圧倒的な絶望がそこに横たわっていたのだろう、今の日本ってなんて酷い社会なんだと思い、重たい気持ちになりました。

死ぬ以外の選択肢がない国

先行き短くなった老人が自分亡き後、一人で生きていくことが困難な年老いた障害者の妻の行く末を案じて、共に人生を終わらせようと考え、彼女を海に突き落とし、自分も命を絶とう考えた。と言うのはその絶望感をなんとなく理解する事が出来る気がします。誰にも手を差し伸べてもらうことなく、相談する相手も助けを訴える先もない、社会と断絶した老人が手にしていた選択肢が他になかったのだと思います。
弱った者を誰も助けてくれない薄情で弱肉強食な今の日本社会は成熟度の低い、行き過ぎた資本主義が行き着く先なのだと感じずにはいられません。まさに今だけ、金だけ、自分だけの偏狭で利己的な世相に陥る社会システムを運用してきた弊害の結果であり、その責任は私達にあるのだと身につまされました。

生きるに値しない世界

そして、社会に対して圧倒的な絶望を感じているのは老人だけではありません。少子化が大きな課題となり、異次元の対策を講じる必要に迫られているこの国の30代以下の若者の死因のトップは自死です。生きる価値の無い世界だと認知して、もうどうしようもない、死んだ方がマシだと自らの命を切り捨てる選択をする若者が後を断ちません。圧倒的な絶望が蔓延してしまっているのです。
本当の痛みや苦しみは本人しか分からないものですが、私達はあまりにも人の苦しみに無頓着で、自己責任の名の下に無関心を決め込みすぎているのだと思わずにはいられません。強い者が生き残り、弱い者は滅びる。それが自然の摂理であり、受け入れるしか無いのだとしたら、人が生み出してきた文明は一体なんのために進化をさせてきたのかと疑問を持たずにいられません。

文明の扉、言葉

文化、文明の端緒である言語が生まれ、人間が使う様になったのは必要に迫られたからだと言います。まだ農耕も始まっていない、道具さえも使かえていない、猿と大して変わらない狩猟生活を送っていた人間が最も重要視したのは生きること、生物として種を残すこと。必要は発明の母と西洋の諺にありますが、言葉は生きる為に必要だったから生まれ、使われる様になったと言うのは想像に難くありません。
人類最大の発明の一つに「役割」が挙げられますが、その役割を機能させるには明確な意思の疎通が必要なことを考えれば、言葉を操ることが出来る様になった事で人類は大きな進化を遂げたのは間違いありません。

生きるのに必要なのが言語

言語を司る様になり、集団生活における効率と効果を圧倒的に向上させた人類。言葉によって生存の可能性を大きく広げました。しかし、実はその発端になったのは、弱い者、集団生活に寄与しない役立たずが排除されるのを逃れる為だったとも言われます。原始的な弱肉強食の厳しい自然の摂理の中で少しでも安全に暮らせる様に集団行動を取る様になった人類は役割分担を発明し、助け合いながら生きる様になります。いわゆる社会の形成です。しかし、将来役に立つ子供はまだしも、年老いて動けなくなった老人や、身体に障害を持つ様になった者は集団にいるだけで穀潰しの役立たずであり、さっさと排除する、もしくは始末する方が全体的に見れば良い選択になるので、容赦無く殺されたと言います。弱者がそれを回避するためには、自分よりもっと役に立たない者がいると人を貶めたり、自分はまだ役に立つとアピールする必要がありました。弱き者が必要性に駆られて、生きる為に生み出したのが言語だと言われています。

言葉を交わす場の力

言語の発明、発達の起源を鑑みれば、人は人を貶める悪口、陰口、自分のポジションを守るポジショントークや自分を良く見せる嘘をついたりするのは致し方ないように思えます。言葉は人を出し抜き、生き抜くためにそもそも生まれたのならそのような性質を持っているのだと認識するしかありません。逆の視点で見れば、圧倒的な絶望を胸に自ら死を選択する人も言葉を交わすことが出来れば、生存本能が働き、国が悪い、世間が酷いと悪態をつきながらも生きようと思うのではないかと思います。
もう駄目だ、全てを諦めようとの結論を導くには、何度も繰り返し思考を巡らせて、無理だ。との結論を叩き続けなければなりません。誰とも関わることなく、ずっと自分一人で考えたら同じ結論に導かれるのは当然だと考えれば、誰かに悪態をつくだけでも違う思考に切り替わり、自己完結ではなく、誰かのせいにする事で生きる理由が生まれたりすることがあると思うのです。ICTの圧倒的な普及でテキストの交換はあれども、言葉を発する場は圧倒的に減りました。原始的ですが、言葉を交わして人に罪をなすりつける場を設てあるだけで圧倒的絶望は大きく減少するのではないかと思うのです。

もっと、話そ

若者の自死とはレベルが違いますが、日常生活の中で見かけたり、触れたりする圧倒的絶望に離職やコミュニティーからの離脱があります。この会社に所属し続ける価値が無い、所属するに値しないコミュニティーとの判断はある意味圧倒的な絶望だと思っています。その原因は千差万別、人それぞれですし、一概にまとめるわけには行きませんが、私の経験則からの教訓では、ほぼ人間関係に由来して、こんな人とはやっていけない。との厳しい人格否定と、絶対に分かり合える事がないとの絶望的な諦めで人は去っていくと考えています。それは、誰かの悪口さえも口にする意味がないとの判断であり、決断は同時に言葉を失う瞬間でもあります。
また、人は基本的に正体不明なものを怖がったり嫌ったり、逃げたりする習性を持っていると考えれば、言葉を交わす機会が減れば減るほどお互いを嫌いになり、警戒し、諦めたり絶望したりするのかも知れません。
もっと、話そ。とのなんの意味もない一言が圧倒的な絶望をこの世から少しでも減らせる私たちにできることなのかも知れません。

______________

若者にIkigaiを持って働ける環境を作るべく、本物のキャリア教育の高校の普及に取り組んでいます。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?