2019年12月課題_2

体がなくなって、僕は風になれる

(※こちらの文章は、サムネイルの画像からインスパイアされて描かれた物語です。)

しかめっ面に似合わない、優しいベージュのリブ編みのセーターを着た青年は、ヤエルと言う。彼は月に1回くらいこのお店に来て、レジの一番近くの窓側の席に座る。座るといってもヤエルの場合は片方の足がないから、上半身のバランスがうまく取れないため杖で体を支えながら、椅子によたれかかっている状態でいる。ヤエルはデカフェとガレットを注文し、届くやいなやものすごいスピードでガレットを食べる。その様は、時間を持て余している自分を否定し、生命(いのち)という有限な時間を使いきりたいと願っているかのようだった。

ガレットを食べ終わると、一息をついて、外を見つめる。そして、何かを思いついたように、右手を持ち上げて、無造作に、でも集中している様子で窓の結露を拭く。ガラスの向こう側にいる男の、顔と上半身だけがみえるように。

「足は何のためについているのだろう。」と彼は思った。窓を拭いたおかげで崩れた身体の態勢を、杖を軸にして調整して椅子にフィットさせる。彼は考えを進める。
片足がなくなる前の彼は、足にのしかかっている体重のことや、足の爪が傷んでいること、足の裏のシワの数も気に留めたことがなかった。学校の試験、友達と遊ぶこと、恋人をつくること、そんな風に次々と目の前に立ち上がってくる人生のタスクをこなしていた。
例えば、ガラスの向こう側に見える彼もそうだ。きっと彼は、ドライバーで、会社から支給された黄色の車で毎日、車に積まれた箱の山を、決められた住所にひとつずつ届けていく。今日はこのお店に、ひよこ豆と大豆の缶詰が敷き詰められた段ボールを数箱ほど届けた。このお店のひよこ豆を使った揚げ物は、ビーガンのファンが遠くから通ってくるくらい美味しい。だけど、彼はそんなことも知らずに、決められたものを決められたところに届ける。そうすることで、彼はお金を得て、明日の生活を手に入れる。そんな生活をしている彼は、自分が不自由だとは思っていないだろう。どこにでもいける足を持っているし、それが自分の意思の通りに動いていると思っているから。多くの人は、足があるから自由に動けると勘違いしている。でも実際は逆なのかもしれない。彼は足を使って働きながら、自らを自らに縛り付けているかもしれないのだ。

僕も同じだった、とヤエルは窓の外の男から目線を店内に戻し、テーブルクロスの穴のあいた部分を見つめる。僕も現実にあるモノや現象にばかり目を向けて、生きることをこなしている日々だったから、病気で足を切断することになったときは恐怖だった。日々当たり前に行なっていることができなくなるという運命を、果たして自分は受け止めることができるのだろうか。これっぽっちも自信が持てなかった。もう行くべきところに行けないかもしれない。やるべき仕事もやれないかもしれない。結ばれるべき人と恋人になり結婚するということができないかもしれない。普通に生きていても、全てを経験するには人生はあまりにも短い。なのに、片足がないことで、きっとさらにやれることが狭まるし、やるための時間がひとの倍はかかってしまう。人生において次々とうまれてくるだろう欲望やタスクをこなさなければならない焦燥感に、僕は対抗できるのだろうか。社会から要請されて立ち上がってくる「欲望」とそれができない自分という「現実」との間に挟まれて葛藤をするだろう未来に
絶望していた。

***

ヤエルは少し冷めたコーヒーを口に運ぶ。普通のコーヒーから、ノンカフェインのデカフェにしたのは、足を切断して6ヶ月後だ。カフェインの利尿作用でトイレに行く頻度が高くなると面倒くさいからノンカフェインにしてみたのだ。その時からこのビーガンのお店に通い始めた。絶望の外側に、おぼろげに光が見えたのもこの時期くらいだったかな、とヤエルはカップを置き、人気のない店内をぼんやりと見つめる。
足を切断したほとんどの人が経験する痛みがある。それは、幻肢痛と呼ばれるものだ。もともと足があった場所の一部、つまり、幻のふくらはぎや幻の膝あたりが痛むという病気だ。そこに、もう肉体はないのに。存在しえないものに痛みを感じるなんておかしなことだと最初は思っていた。だけどふとある時、これは本当に病気なのだろうか、と思った。この痛みこそ、人間らしい痛みなのではないだろうか。愛する人が心を痛めていたら、自分の心も痛くなることがある。目の前で指から血がでている人がいたら、自分の指も痛いような気がしてくる。それと同じことなのかもしれない。

それに、とヤエルはコーヒーを飲み干しながら付け加える。足があった時は、自分で触ることのできる肉体を伴った、今ここにいると思える「現実の自分」をいかに幸せにするかというゲームをしていた。だから、頑張って落ちこぼれにならないように、明日の生活がちょっとでもよくなるように、毎日を過ごしていた。だけど、もはや痛みが「現実の自分」の範囲を超えているのだとしたら。僕は誰を幸せにしたらいいのか。そうなると、全てなのではないか、という気がしてくる。「現実の自分」というものはなくて、目の前で悲しむ愛する人も、怪我をしているあの子も、ドライバーの彼も、鳥も、花も、風も、全部、「自分」の範囲に入るのかもしれない。そんな「拡張された自分」が現れてきたのだった。

そう考えると、「現実の自分」は足を失ったけれど、「拡張された自分」は風でもあるのだから、もっと自由になれるのだ。風は、季節にも仕事にも縛られず、どこにでも行けるし、気まずくなったらすぐさま姿をくらませることができる。ヤエルは目を瞑って、海を漂う風になりきってみる。海辺を漂いながら、海岸のお店で暖をとっている人の心を数えてみた。久々に会えた友人と楽しく過ごしている暖かい心。犬の散歩をしながら、年を重ねている犬に想いを馳せている心。今の僕は、その全ての心が自分のもののように感じることができる。前までは自分にこんなことができると思ってもみなかった。ぼくたちは怠惰だから、この力を滅多に使わない。現実にみえているものにばかり注意をむけて、あーだこーだ管を巻いて人生の大半を過ごしているのかもしれない。

気がつけば、黄色い車のドライバーはもういなくなり、窓の結露が再び濃くなり、もう外を覗くことができなくなっている。ヤエルはハッとし、急いでポケットの中からメモを取り出す。今日買わなきゃいけないものは、食器洗いのスポンジと靴下だ。急いでそれらを買って、その後は家で仕事をしなくちゃ。彼の顔は、しかめっ面に戻っていた。

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#もぐら会 #創作

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