親の介護と自分のケアの記録 その10

親に由来すると思われる生きづらさを抱え(いわゆる宗教2世当事者という側面もあります)、2021年3月からカウンセリングに通い始めました。
これから介護などの必要が生じて親と向き合わなければならなくなる前に自分の問題を棚卸ししたい。
そうカウンセラーに伝えた矢先、母が脳梗塞で入院することに。
自分を支えるために、その経過を記録していきます。


2022/10/5

9時過ぎに車で家を出て、10時半くらいに実家着。

持っていったおかず類は、
肉じゃが、かぼちゃ煮、メカジキ南蛮漬け、きのこマリネ、ピーマンくたくた煮、おからパンケーキ。

着いて早々、母からゴキブリホイホイの組み立てを頼まれる。

最近ゴキを二度見たそうで、父に話したらゴキブリホイホイを買ってきてはくれたが、組み立てまではしてくれなかったとのこと。

ゴキブリホイホイを組み立てるのは初めてだった。
足拭きシートなるものや餌っぽいものをくっつけたり、あっちこっちに折り目をつけたりと、意外に面倒臭い。
若者たちには売れてないんだろうなと思う。でかいし。

組み立てながら、なぜゴキはあんなに嫌われるのだろうね、と話す。

その後、山積みになった母の洗濯物をたたみ、入浴デイサービス用のタオル、着替えなどを準備する。

入浴デイサービスの準備はなんてことない作業だが、「パンツはこれでいい? 靴下はこれ?」とかの確認で毎回意外に時間がかかる。

洗濯物をたたみながら、母に「自分の墓をどうするかとか考えてるの?」となにげなく聞いてみた。
よく聴いているジェーン・スーのポッドキャスト番組で先日墓の話題が出ていて、ふと聞いてみようと思ったのだ。

葬式も墓も、K関係のものを既に手配済とのこと。

想定内、と思いつつ、少しずつ気持ちが沈んでいく。
母はもう死んでいる中で、いろいろな手続きの主体になるのは私なのよね。

「(葬式にも墓にも)あんまり行きたくないな…」とごく正直な気持ちを話す。
母は少し悲しそうに、「どうしても嫌なら来てくれなくてもいいけど、
できれば来てほしいな」と言っていた。

そこから、Kの話題になると母からいつも出てくる「あなたはどうしてKから離れてしまったの? それがなぜなのか私にはわからない」という話になった。

20代のころ、何度か母とその話題になった。
私はそのたびに、Kに強い違和感を感じる、うさん臭いと思う、苦しい、と感情的に訴えた。
冷静さを保とうとしても、いつもできなかった。
母の姿勢は、「あなたにもきっとわかる日がくる。あなたが改心してくれる日を待っている」というようなものの一点張りだった。

話が恐ろしくかみ合わないことに絶望した。
話が平行線をたどるとはこのことだ、という感じ。
苦しいという訴えを完全無視されることが何より嫌だった。

母とこの話題になると、どうしても感情的になってしまう。
この日も、声を荒げ、うさん臭い、強烈な違和感を覚える、とKのことを罵倒してしまった。
私のそういう態度が母を傷つけることは承知だが、止まらなくなる。
きっと母も母で苦しくて何かにすがりたかった結果なのだと思う気持ちもあるのだが、そっち側の言葉は後退してしまう。

「うさん臭い」と「強烈な違和感」。
自分の語彙のなさに嫌になるが、それ以上の言葉が出てこない。
親が、私にはひどくばかばかしく思えるもの(そして、世間的にも同じくそう見えているであろうもの)を何十年も信じている、ということに私は傷ついている。

母は、「あなたにもいつかはKの教えが正しいことがわかる」というようなことで締める。
私はこれ以上言っても消耗するだけだと思い、黙る。
いつもの繰り返し。


…と険悪なムードになったが、介助者として来ているので気持ちを切り替え、数分後には、表面上はごく普通の親子のような会話に戻す。
向こうも何事もなかったかのようなふりをしている。

これは、母が要介護状態になってから起きた大きな変化だと思う。
以前は、Kのことで口論になると、母から「もう帰れ。来なくていい」みたいなことを言われ、そのまましばらくは音信不通みたいなことになっていた。

でも、介助者となった私は母のライフラインの一部となり、母はもう「帰れ。来なくていい」とは言わなくなった。言えなくなった。
それを、少し残酷なことのように感じる。


昼前に生協の宅配が来た。いつもより少し早い。
届いた食料品を冷凍庫や冷蔵庫にしまい、もずくや豆腐の小分けパックは点線からはさみで切り離したり。


その後、頼まれていた手の爪切りをした。
たらいに湯を張り、しばらく手を浸けて爪をやわらかくする。
手を軽くマッサージしていると、湯には結構垢が浮く。

麻痺のある右手から爪を切る。
こわばりが強く、指がうまく開かない。
右手が意思を持って怯えているようで不思議な感じ。
動く左手と麻痺でほとんど動かない右手は、外見上にもいろいろな違いが生じている。
右手のほうが左手より随分毛深くなった。
爪は右手が薄く、左手が厚い。
右と左で別人の手のようだ。

爪切りを終え、全体にやすりをかけて終了。
時間が許せば足の爪も切る予定だったが、訪問リハビリの時間が迫っていたのでこの日は手だけにとどめた。
爪を切ると気分がさっぱりするらしく、爪切りのあとはいつも妙に感謝される。


1時間の訪問リハビリの間に、キッチンとリビングの掃除をした。

途中で父帰宅。
補聴器をお試しレンタルしてきたとのこと。
20万もする(20万はまだ安いほうらしい)補聴器はかなりよく聞こえるらしく、久しぶりに父との会話がスムーズにできて驚く。
聞こえが悪くなってからは日本映画を観られなくなり、もっぱら外国映画を字幕頼りに観ていた父だった。
「じゃあ、補聴器がうまく合ったらまた日本映画を観られるね」と言ったら「おお、そうだな!」とうれしそう。
さっそくテレビで何か観ているなと思ったら『翔んで埼玉』で、ちょっと笑った。


訪問リハビリの理学療法士さんが帰った14時過ぎに、私も実家を出た。
いつも14時過ぎには帰るつもりでいるが、「トイレ掃除をまだやってなかった…」とついやってしまったりして、予定より遅めに実家を出ては時間を奪われたような気になって勝手にイライラしていた。

その日は、トイレ掃除は次回に回すことにして、時間で区切ってさっさと退散した。
母との例のやりとりもあったので、ぐったり疲れていたこともあり。

実家を出て駐車場までの道の途中にあるファミレスに入り、日替わりランチセットとドリンクバーを注文して一服。

食べたらさっとファミレスを出て帰り、家でたまっている仕事をするつもりだった。
が、ふと思いつき、note内で「宗教2世」で検索をかけてみたら、当事者の書いたものが次から次へと出てきて、貪るように読んでしまう。
本当にのどの渇きをいやすかのように、ごくごくごくごくと読み続けてしまい、止まらなかった。
気づいたら、2時間ほどファミレスに居坐っていた。

今の状況に促されるように、おそるおそる、ようやく言葉にし始めたひと、言語化に慣れ、さらさらと過去のこととして語れているひと。苦しみの渦中にいるひと、親は親、自分は自分という切り離しができるようになっているひと。いろいろなひとがいた。

自分が欲していた言葉がそこここに落ちているようで、それらを夢中で拾い集めるように読んだ。
やっぱりこの状況は苦しいよね?苦しいと言っていいんだよね?と読みながらその筆者と対話するように。

先日Twitterで同じようなことをしたときはひどく疲れてしまい、しまいにはTwitterのアプリを消した。
Twitterの速度感のようなものに私はついていけない。

その日も、ずっとiPhoneを見つめ続けていたので目の疲れはあったが、Twitterを見続けたときのような疲労感はなかった。

↑ その日読んだ中の1つにこれがあった。
さっそく、帰りの車内で「荻上チキ Session」の9月8日放送分を聴いた。

ゲストで出演されていた黒沼クロヲさんという方の話が胸に沁みた。
とてもうまく話していたけれど、苦しんできたひとだな、ということがよくわかる。
この放送を聴けてよかった。

黒沼さんの話で、TBSラジオの深夜放送などのいわゆるサブカル的なものにふれることで、過酷な環境下でも心の均衡を保てていたという話には強く共鳴した。

私の場合は、それが映画だったのだと思う。
20代から30代半ばまで、家と仕事場の次に長くいるのは映画館、というくらい映画館に入り浸っていた。
時間があれば、暗闇に身を潜めて画面を見つめていた。
あの暗闇は、確実に私の居場所だった。

太宰治の短いエッセーで、映画館にいるやつはみんな弱者だ、みたいなものがあり、時々思い出す。
私のことだといつも思う。
暗闇の中でほっとする感じは、とてもよくわかる。



母の介護が始まってから初めてのカウンセリングで、「母の介護を意外に穏やかにやれていて、自分でも驚いている」とカウンセラーに話した。

どでかいゴサイダンが置かれ、枕元には教祖の本が積まれている母の部屋。洗おうと思って枕カバーを外すと、なんたら祈願と書かれたうさん臭いお守りがバラバラと落ちる。

そういう部屋に毎週2回通っても、思ったほどは精神的ダメージを受けなかった。

それは、私に介助者という役割が加わったこと、もともと私が介護とか介助といったことに淡い興味を持っていたことも大きいのだと思う。

母は脳梗塞で倒れる前から肉体的な不自由を抱えていた。
でも、それははっきりと「障害」と呼べるものかと言うとグレーな感じであり、母自身もその不自由から目をそらそうとしていた。
そして、そのことが母の生きづらさにもつながっているのだろうと感じていた。

それが、重い半身麻痺を負うことで障害がくっきりと顕在化した。
今の状態の母のほうが、以前の母より、私にとっては接しやすい。
私は、たとえ娘とはいえ、結構ひどいことを言っているのかもしれない。
でも、本心だ。

そんな変化があり、「もしかしたら、ここから母との新しい関係が生まれるのかもしれないと感じている」とカウンセラーに伝えていた。
その前の回のカウンセリングでは親子関係のトラウマケアみたいなことを次回以降少しずつやっていきましょうという話になっていたが、カウンセラーも親子関係は小康状態にあると判断したようで、その後、親子関係のトラウマケアに関しては一旦棚上げになっていた。

が、介護が始まってから1年以上がたち、今、親子関係のしんどさが再浮上している。
ここ最近、宗教2世の当事者の声に多くふれられるようになり、そこに刺激されている部分も大きいと思う。

次回のカウンセリングでは、その辺の気持ちを正直に話そうと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?