阿古真理『料理は女の義務ですか』抜き書き

 日本では現在、世界各国の食材が手に入り、料理法が伝えられるがゆえの選択肢の多さが、人を悩ませてもいる。何をつくったらいいのか選べないのだ。料理技術の低下も著しい。レパートリーも少ない、基本技術も怪しいまま、台所に立つ人は珍しくない。さらに忙しさが料理を困難にする。食材を調達したり、つくる時間もままならない。食べ損なった食材やつくった常備菜が冷蔵庫の中で腐り、つくる気が萎える。子育てと家事の両立に苦しんでいるときに、レトルトの離乳食と出合う。自分でつくったものより、おいしいと思える冷凍食品がある。家族が喜ぶ出来合いの惣菜がある。
 何しろ、デパ地下やコンビニ、スーパーなど、できあいの惣菜(中食)や加工食品が手に入る店がたくさんある。外食の選択肢もある。しかも、日本の外食・中食産業はクオリティが年々上がっている。外食・中食で舌を肥やした人々は、自分がつくるよりお金を出して手に入れる料理のほうがおいしい、と思うようになっている。
 簡単に使える商品があるのに、なぜ自分がつくる必要があるのか。そして、なぜ自分だけが料理しなければならないのか。一緒に「ただいま」と帰宅したのに、夫はテレビの前でくつろぎ、自分は化粧を落とす暇もなく台所に立つのはなぜか。男性で似た不満を抱く人もいるかもしれない。一人暮らしなら、料理する動機はさらにわからなくなる。なぜ、あえて自分でつくらなければならないのか――。(P34-35)
 たいていの料理にはそれぞれの難しさがあるのに、食事の支度は一回一回が本番である。昭和後期、働く女性の味方として一世を風靡した料理研究家、小林カツ代は『小林カツ代のらくらくクッキング』(文化出版局、1980年)のあとがきで、自らの新婚時代の失敗を踏まえ、「夕飯のおかずはこれっきりというときに、とても食べられたものじゃない料理が仕上がったら、どんなにか情けないと思います」と書いている。(P43)
 『主婦之友』は人気となって、「主婦」という言葉を広めた。明治半ばに登場したこの言葉は当初、使用人などを束ねて家事を采配する豊かな階層の奥さまを指した。それが日清・日露の戦争で進展した産業革命を経て、企業で働くサラリーマンがふえて事情が変わる。サラリーマンの妻たちは働く必要がなかったが、使用人を大勢は雇えず自らも家事をした。女学校出の彼女たちは、家事に関する経験や知識が少なく、雑誌を頼る。そして、愛読誌から自らを主婦と認識するようになった。主婦は、サラリーマンの妻を指す言葉になったのである。(P135)
 高度成長期、新しい時代に育って便利なキッチンを手に入れた核家族の主婦は、それまでの世代と異なる意識を持っていた。「自分は夫と対等な人間」と考える彼女たちは、夫が稼ぎ自分が家庭を守る役割分担をした、と考えた。いわばプロフェッショナルの主婦である。彼女たちにとって、キッチンは「自分の城」だった。この時代の主婦が積極的に新しい料理に挑戦し、昭和飯を定着させたのは、彼女たちが「台所の主人である」という自覚を持ったからである。(P137-138) 
 料理は家事の中でもクリエイティブな作業だ。中でも買いものは高度なスキルを要する。フランスの社会学者、ジャン=クロード・コフマンは、さまざまな年代の家庭を持つ女性22人を対象に行った家庭の料理に関する意識調査を1996年に実施し、『料理をするとはどういうことか』(保坂幸博・マリーフランス・デルモン訳、新評論、2006年)にまとめている。同書によると、料理に関わる家事で最もつらいのは買いものである。フランスでも惣菜などの需要がふえ、家庭料理の存続は危うくなっていた。
 料理を担う人が生活全体を考えて行う買いものは、頼まれてする「お使い」とは次元が異なる。栄養のバランスを考え、前後の日の献立、食卓に座る家族の数など状況に合わせて献立を考えつつ行わなければならない。予算は限られ、欲しい食材があるとは限らない。店先で決めようと行って、ピンとくるものが見つからず悩む場合もある。買ったものは、自転車のかごいっぱいになったり、両手が千切れそうになるほど重いかもしれない。何軒もはしごしないと必要なものが揃わない場合もある。(P150-151) 
 人々が食材調達にも苦労した第二次世界大戦は、私たちの食文化を崩壊させた。戦中戦後に育った女性が、こぞって料理メディアから学び料理教室に通ったのは、親から教われなかったからである。
 自ら学んだ彼女たちは、自分の娘にも教えなかった。教えを請う娘に、「お母さんには基礎がないから」と料理教室をすすめる人もいた。「料理なんかより勉強しなさい」と娘の出世に期待した親もいただろう。子どもは労働力ではなく、のびのびと遊び学ぶべき、と価値観も変わった。母親は子どもを台所から遠ざけ、子どもは台所で何が行われているのか知らないまま育った。(P159) 
 巷に溢れている家事論は、専業主婦全盛期の水準が高い家事をへらし、外注化を促すものである。その提案に一定の意義はあるが、家をどう整えたいかには個人差があり、外注化にも限界がある。そして何より、家事を経済的価値という狭い視点から測ることに私は違和感がある。
 1990年代に専業主婦になった友人たちは、「主婦も無職じゃないし、私たちも働いている」と言い、やはりどこからか経済的価値があるとする主張を引っ張り出していた。稼ぐことが当たり前になった現代において、収入がないことは肩身が狭い。
 しかし、家庭運営は通常の仕事と違う。暮らしには不確定要素が多過ぎるし、人生に関わる責任と直結している。例えば料理は、貨幣経済が成立する前から存在しており、誰かがしなければ人は食べて命をつなぐことができない。利益が優先の飲食業や食品産業と異なり、家族のための料理には、健康を守る役割もある。だから責任重大だし、面倒にもなる。その労働の価値をお金で測ることが可能なのか。
 『お母さんは忙しくなるばかり』(ルース・シュウォーツ・コーワン著、高橋雄造訳、法政大学出版局、2010年)は、近代化と家事の関係を次のように分析している。
 近代になって、家庭内における男性の労働は産業社会に組み込まれる一方、女性の仕事はふえた。例えば暖炉にくべる薪を集め、割る男性の仕事はガスや電気の普及で必要なくなる。暖炉では一品料理しかできなかったが、ガスや電気を用いた調理用ストーブでは品数を多くつくれるようになった。それは、日本でかまどがガスコンロに置き換わり、一品が基本だった庶民の食卓が一汁三菜に置き換わったことと同じである。(P175-177) 
 現実には、家事のほとんどを引き受ける女性や男性は不満を抱きがちだ。それは、家族が彼女や彼の奉仕を、自動的に行われるサービスだと思って感謝しないからだ。愛には愛で応えなければならない。一方的に尽くされて当然と受け取る人に腹が立たないのは、相手が赤ん坊など無力な存在だと感じているからである。
 共同生活を営むうえで発生する用事は、何が負担で何が楽しみで、何が個人的な雑務なのか、といった線引きが難しい。(中略)楽しみと労働に切れ目がないのが生活であり、負担も喜びも共有するのが家族である。(P178-179) 
 例えば、一人暮らしの人は、家事を労働と思わずこなしている部分もあるのではないだろうか。家族のいる人が負担を感じるのは、協力しようと思えばできるはずの人がしないからだ。(P180)
 アメリカ人は、大量の広告にさらされる生活をしている。「何十年におよぶ巧みなマーケティング戦略が、私がスーパーで出会った、簡単なソースさえ作る技術が自分にはないと思い込む女性を作り上げた」と(『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』の中で、キャスリーン・)フリンは書く。その記述は、「そもそも面倒なのか」と思うものに対してすら「これさえあれば簡単です」と訴える、家事のお助け商品のCMに日々さらされる私たちについて言っているようだ。外注料理はあくまで助っ人であって、全面的に依存する対象ではない。(P187) 
 料理などの家事を「仕事」と考えるかどうかは、女性学と出合った20歳のときからの疑問だった。確かに家じゅうを掃除した後は「働いた!」と実感も湧くし、家事で疲れることも多い。子育て期や専業主婦の人は、労働量が多いため、仕事と感じるかもしれない。しかし、その労働は自分のためでもある。それを基本的に他者に奉仕することで報酬をもらう「仕事」と一緒にしたくはない。そのことを実感するのが料理だ。
 疲れているときは料理したくないし、義務として料理する日もある。しかし、「これが食べたい」と思うからつくる日もある。「仕事」と割り切れないのは、私が基本的に料理を好きだからだろう。(P206)

料理に対して、ずっと愛憎入り混じるような感情を抱えてきた。

基本的には料理が好きだ。料理には創造の喜びがある。もちろんそれを食べるという喜びもある。そして、食べてしまえばその創造物はきれいになくなるという点も、個人的には素晴らしいと思っている。つくったものを残しておきたいという欲求があまりない。

まさに五感を使って料理をしていると、それ以外の時間、いかに局所(ほとんど目)しか使っていないかを痛感する。まるでスマホの画面をなでるように、ものごとの表面のみをつるつるとなぞっているようで生き物としての手応えを感じられないようなときに料理をすると、何かを取り戻せる気がする。

一方で、「日々の料理」を考えると、自分ばかりに負担がきたり、同居の者の協力が得られないと感じるときには、自分ばかりが割を食っていると思ってしまう。何の感想もなく黙々と食べられると、腹が立つ。

そういうもやもやに対するヒントがあることを期待して、この本を読んだ。前半部は料理の歴史にかなりのページが割かれていて少し意表を突かれたが、後半部には期待したことが多く書かれていて、思わずたくさん抜き書きしてしまった。同じ著者の『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』、この本で紹介されていた『お母さんは忙しくなるばかり』、『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』も読んでみたい。

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