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願いが叶わない時、どんな心の持ちようで生きたらいいか I

part of being young is secretly believing that you're invincible
(拙訳)若さとは、密かに自分は無敵であると信じていることである

Unfinished Business

昔、ひょんなことで1歳くらいのお子さんを連れたご家族と、旅行の道中の一部をご一緒したことがある。そのとき、そのお子さんが積極的にベビーカーを降りたがり、自分の足で歩むことに熱中している様子がとても印象的だった。「私は歩けるようになった!」という、自分の進歩への喜びと、新しい体験の楽しみに満ちていて、人が成長することの醍醐味を身体いっぱいに表現していた。

この成長することの喜びに満ちた期間というのは、人生の中でせいぜい二十代までなのではないか、という気が最近している。成長の内容が自分一人の成長に閉じていて、また自身の未熟度が高いほどに、成長はしやすい。
もちろん三十代以降人間は成長しない、と言うつもりは毛頭ないけれども、身体の衰えといった下降局面を経験したり、直面する問題の複雑性が増して自分一人ではコントロール不能なことに悩まされたりし始めて、分かりやすく一直線に向上していくことを無邪気に信じられる時代の終わりって、やっぱり誰しもいつかは訪れるんじゃないだろうか。

少なくとも私の場合、二十代までは「成長する」というストーリーに夢中で、人生の苦しみを半ば無視しながら生きていた。ちょっとやそっと苦かったとしても、それはあくまで成長していることの裏返しであり、希望を持って生きることができた。可能性は無限大にある、そんな希望を無邪気に信じていた青春時代の終わりに、自分は今立っているんじゃないかと思う。

そんな新しいステージを迎え、この後どうやって生きたらいいんだともがいている中、一つ差し迫って考えていたことは、「自分一人の力では到底制御しきれない願いが叶わないままで燻っているとき、どういう心持ちで日々を生きればいいのか」ということだった。

この苦々しい想いを抱えたまま、ここ数ヶ月色々な本を読んでいた。すると思わぬ気づきとなり慰みとなったのが、「人生には楽しいことも苦しいこともある」という当たり前の前提に立ち返れたことだった。何かに囚われているとき、自分が置かれている状況を一度俯瞰して見てみるのは有効な策だけど、本を読むことでそれが自然にできたのだと思う。

あまりにも当たり前のことを言うようだけど、「人生には楽しいことも苦しいこともある」。この基本に立ち返り、人生に対して達観した態度を取ってみる。すると少なくとも、「なんで私ばっかり苦しいんだ」のような悩みの袋小路にうずくまるより、「みんな色んな苦しみを背負いながら生きているんだよな、人生ってそういうものだよな」という共感を胸に抱く方が、慰みになった。

芹摘みし昔の人も我がごとや心に物は叶はざりけむ

枕草子のたくらみ

こちらは平安時代に読まれた詩で、「芹を摘んだ昔の人も私同様に「世の中はままならない」という思いを抱いていたのでしょう」という意味。これを読んだときに、平安時代の詩人(=私にとっての昔の人)から見てさらに昔の人の時代からずっと、人は苦しい人生に悩まされながら生きてきたんだなと思い、時空を超える共感に胸を打たれた。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

平家物語

『平家物語』でも、人も人生も風に吹かれる塵のように儚いと諭し、鎮魂の鐘の音を鳴らす。
人生はままならない。それを受け入れること、またそのままならなさを人と共感することは慰みになる。そのことを平安時代から受け継がれた文章が教えてくれた。

時代を下って、ユダヤ人精神科医の視点から、ナチス強制収容所からの生還体験を綴ったヴィクトール・フランクルの『夜と霧』でも、苦しむことも含めた生の全体性について触れられている。

わたしたちは生きる意味というような素朴な問題からすでに遠く、なにか創造的なことをしてなんらかの目的を実現させようなどとは一切考えていなかった。わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、相対的な生きることの意味だった。

夜と霧

「生きる意味」というものを問われたとき、つい創造的な・成長や前進を伴う・ポジティブな面の「生きる」ことに囚われすぎてしまい、苦しいこと・死ぬことも含めての生なのだ、ということを忘れかけていた自分を顧みた。この認識を改めた方が、運命に対して無意味にもがくことなく、真っ向から向き合えるように思った。

このような一連の学びを綺麗に昇華させ、詩に結晶させている茨木のり子の詩を紹介しつつ、本稿を終える。

苦しみの日々
哀しみの日々
それはひとを少しは深くするだろう
わずか五ミリぐらいではあろうけれど

さなかには心臓も凍結
息をするのさえ難しいほどだが
なんとか通り抜けたとき 初めて気付く
あれはみずからを養うに足る時間であったと

少しずつ 少しずつ深くなってゆけば
やがては解るようになるだろう
人の痛みも 柘榴のような傷口も
わかったとてどうなるものでもないけれど
    (わからないよりはいいだろう)

苦しみに負けて
哀しみにひしがれて
とげとげのサボテンと化してしまうのは
ごめんである

受けとめるしかない
折々の小さな刺や 病でさえも
はしゃぎや 浮かれのなかには
自己省察の要素は皆無なのだから

「苦しみの日々 哀しみの日々」茨木のり子


セ・ラ・ヴィ。人生は悲しく苦しい(そういうときもある)、それが人生だもの。
そしてそんな当たり前の事実に気づかせてくれた、今日も私の脇を固める本たちに感謝を。

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