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マトリックス三部作の感想

ある土曜日の夜、夫が「久々にマトリックスを見たい」と言い出しました。

マトリックス。
小学生のころ、お父さんが運転する車の後部座席のモニターでエンドレス再生されていたにもかかわらず、ほぼすっかり内容を忘れてしまった映画です。

「まぁ見るか」ぐらいの気持ちで晩ご飯を食べながら1作目だけ見るつもりだったのですが、気が付いたらずぶずぶと引き込まれ、逆に夫を巻き添えにして三部作をイッキ見してしまいました。(見終わったのAM3時)

このnoteでは、そんなずぶずぶにハマってしまったマトリックスの感想を紡いでいきたいと思います。

三部作すべての強引なあらすじ(※ネタバレあり)

ネオ(主人公)は世界に違和感を感じつつ日々を過ごしていましたが、モーフィアスという人物と出会い、真実を知る選択をします。
これまでネオやその他大勢の人間が日常だと思って過ごしてきたのはコンピュータが人間を支配するために作り上げた「マトリックス」と呼ばれる仮想現実の世界だったのです。

現実世界では、ほぼすべての人間はコンピュータの動力源として培養され、ネオやモーフィアスのようにコンピュータの支配から離れた一部の人間がより多くの人間を解放するために活動していました。
またコンピュータは、そのような人間を一掃しようとしていました。

マトリックスには救世主しか訪れることができない場所があり、現実世界の人間を救うにはそこに行くしかないと考えられていました。
救世主だと期待されたネオが、多くの犠牲を払ってなんとかその場所に辿り着くと、そこには「マトリックスの創始者:アーキテクト」と名乗るおじいさんがいて、衝撃の事実をネオに告げます。
(以下、私の解釈による要約。間違ってたらすみません。。。)
「ネオは初めからプログラムされた救世主であり、マトリックスから一定数出てくるバグ(脱出する人間)を減らすためのアップデートプログラム。救世主としての役割は数人を残して種を保存すること。全員を救うことはできない。」
唯一の希望かと思われたその場所を後にし、現実世界のすべての人間を救う方法はないのかと模索するネオ。

一方そのころマトリックスでは創始者でも処理しきれない強力なバグ(スミス)が発生していました。
また現実世界ではコンピュータが操るロボットがついに現実世界の人間への攻撃を始めてしまいました。

ネオは「スミスを倒す代わりに人間への攻撃をやめてほしい」とコンピュータに交渉を持ち掛けます。
結果としてネオは、アップデートプログラムとしての自分と引き換えにスミスを倒し、現実世界の人間を救うことができました。

なぜハマったのか。マトリックスを見て考えたこと。

私は「感情や思考を刺激されて鑑賞後に考え事が増える」と、良い映画だなと思えることが多いです。
言い換えれば、アトラクションのように消費するのではなく、鑑賞後も自分を包み続ける、あるいは刺さり続けるような映画に出会えると頭と心が潤う気がしています。
頭の中にその映画が残り続けて、いろんな角度に思考がスパークするというか、そういう感覚がある映画が好きです。
そういう映画に出会えた時は実際に鑑賞している2,3時間ほどをはるかに超えてずっと噛みしめて楽しむことができるので、言い方は語弊があるかもしれませんが「コスパがいい」と考えています。

マトリックスという映画は私にとってたくさん考え事をするきっかけになりました。
その時間がすごく楽しかった。
だからその世界観にハマってしまったのかなと思います。

1.「そもそも現実とは何か」

まずマトリックスを見て一番に考えたのがこれでした。

「現実」とは何か…
これは1作目の冒頭で「これまで現実だと思っていた世界は偽物だった」と明かされたことによって、容赦なく突き付けられる問いです。

マトリックスの世界は、限りなく私たちの知る「現実」に近いものです。
でもそれはコンピュータが作り上げた仮想の世界だった。現実ではなかった。
マトリックスの存在を認めることによって、「どう見ても明らかで議論の余地が無い」と思っていた前提すら崩れ落ちてしまうのです。

だとすれば、私たちが認識するこの世界が「現実」だという証拠はどこにあるのか。
というかそもそも「現実」ってなんや。

これまでにもいろんな哲学者が「現実」に疑いの目を向けてきたみたいですが、いまだ様々な捉え方があるようです。

考えだしたら止まりません。
だって、一度現実を疑ってしまったら、「たとえ今が現実ではないとして、目が覚めたとして、またそれも現実ではないかもしれない」…と永遠に証明しようがないからです。
(パトナムの「水槽の脳」みたいな。たとえそうだとしてもそれを確かめる手段が存在しない。)

本当のことは分からないし、哲学者の言ってることもよくわからない…
たくさん考えたのですが、自分なりに「現実」の解釈をすることはとても難しかったです。

で、3.「自分の意思は幻想なのか」について考えている時に、ひとまずこの「現実」についての問いを考えるのはお休みしようと思いました。
なぜならば、考えても意味がないから!!!笑
諦めたわけじゃないんですが、この映画が本質的に伝えたかったことは何かと考えた時、「ああそうか、必ずしも真実を追い求めることではないかもしれない」と気付いたからです。

2.「心が死んだと思うから死ぬのか」

コンピュータの支配から抜けた人たちは、マトリックスに独自の方法で不正アクセス?しています。
つまり、現実世界で実際の体は横たわってプラグに接続しているのですが、脳の活動によってマトリックスの世界では自在に動き回ることができています。

じゃあ「マトリックス内で死んでも現実の体には影響ないから不死身!?」と思うのですが、そうではありません。
死んでしまうこともあるのです。

なぜかというと、作中では「仮想であるはずの出来事を心が現実にする。仮想空間であっても心が死を認識すれば、それが現実のものとなる」と説明されています。

もちろん、物語に緊迫感を持たせるための設定(不死身だったらシリアスみがない)にすぎないかもしれないのですが、それでも私は少し考えさせられました。

人間が本当に死んでしまうのは「死を心が受け入れた時」なのだろうかと。

私にとって「死」は、受け入れようが受け入れまいが容赦なく訪れる、とても恐ろしいものに感じます。
ですが、「死」はだれもが経験するものでありながら、だれも「自分の死」を経験したことがありません。
他人の死を経験することはあっても、自分の死を経験することはできない。
だから、本当のことは分からないのです。

もしも、その時が来て選択ができるのだとしたら。
つらく悲しいお別れをしたあの人が、本当は自分で受け入れて死を選択したのだとしたら。

この考えは現実的ではないかもしれません。
いやむしろ、かなり妄想に近い。
「あの人が受け入れるなんて、そんなはずがないじゃないか」と思う自分もいます。
その人の辛さを知る人ほどそうかもしれない。

でも。
今生きている私は「あの人が少しでも幸せでいてほしい」と願わずにはいられません。
「辛く悲しい思いで連れていかれたのはなく、自分で受け入れて向かっていったのかもしれない」と、すがるような、祈りのような気持ちで思うことができたら。
真実を知ることができなくても、そうであってほしいと願うことはできるのではないかと思いました。

死については分からないことがたくさんありますが、捉え方のひとつとして、この作品中で提示されている気がしました。

3.「自分の意思は幻想なのか」

2作目の最後、マトリックスの創始者であるアーキテクト(という名のプログラム)がネオに告げるのは、「ネオもその他人類も、すべてマトリックスの存続のために計画されたものだった」という衝撃的な事実です。
自分の意思で選択してきたどころか、全てコンピュータの手のひらで転がされていただけだった、という絶望感…

私だったら「自分の意思なんか、関係なかったんだ、意味なかったんだ…」って思ってすべての選択を放棄してしまいそうです。

でも、3作目でネオは自らの行動を通して「それはちがう」ということを示しました。
定められた運命に従うのではなく、自分の意思で人類もマトリックスも救う方法を模索し、だれも思いつかなかった方法を見つけ、そしてやり遂げたのです。

これはもしかすると、マトリックス三部作の中で一番強く心に残るメッセージかもしれません。

私には「現実」が何であるか、今この世界が「現実」であるかどうかなんて分かりません。それに、誰かの手のひらで転がっていたとしても分かりません。
ネオもそうでした。
でも、「現実」ではなかったとして、手のひらで転がされていたとして、そのいずれもネオにとって自分の意思や選択を放棄する理由にはなりませんでした。

言葉にしたら陳腐化してしまいそうですが、私たちが当たり前と思っていることに対して「本当にそうなのか?」という問いかけをしつつも、結局は「真実がどうあれ、自分の意思と選択で未来を切り開く」というメッセージを伝えている作品だと感じました。
(1.「そもそも現実とは何か」で「現実」について考えるのをやめた理由はこれ。)

さいごに

このnoteは、自分の感性に敏感になり、それを表現できるようになるために書きました。

もし読んでくださった方の中で小説や映画などの感想(分析、批評ではなく)を書いている方がいらっしゃったら教えてください。
わたしもみなさんの感性を知りたいです。

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