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人生がつらいのはデフォルトだとして

思春期真っ只中だった14歳のある日、仲が良かった友人から「死にたい」とメールをもらったことがありました。

「生きているのがつらい、死にたい」

当時の私は「生きていたらきっと良いことがあるよ」などという非常に当たり障りのない励まし文句で、彼女の希死念慮を受け止めた、というより受け流したような記憶があります。

人間のメンタルブレイクなるものに初めて直面して、動揺した私がどうにかこうにか絞り出しただけのその場しのぎの言葉が、彼女の心を軽くできたとは到底思えませんが、幸いにしてその子はそのまま思春期を終え、今は家族ができて幸せそうな姿を度々SNSで見せてくれています。
本当に良かったです。

でも今の私は「生きているのがつらい、死にたい」と言う人に対して、「生きていたらこの先きっと良いことがあるよ」なんて、その場しのぎであってももう言えないだろうと思うのです。

だって、正直なところ生きるのってめちゃくちゃつらいから。
頑張って生きていたところで、この先も必ず嫌なことやつらいことは起こり続けるから。

例えばですよ、嫌なことが1回起こった後に良いことが100回続けて起こったとしても、その後また1回だけめちゃくちゃ嫌なことが起こったら、それは【嫌なことばかりが起こる人生】じゃないですか。

大抵の場合「ああまたか」と、どうしても思ってしまう。

その「ああまたか」を帳消しにできるほどの良いことが存在するとしたら、それは宝くじで1億円が100回当たる、とかのレベルなわけですよ。
「会計がゾロ目だった」とか「信号が全部青だった」とか「電車がすぐ来た」とか、そんなレベルじゃカバーできない。割に合わないんです。

だってこちとら心が傷ついて絶望してっから。
対等に渡り歩けるのは、やっぱり宝くじ1億円なんです。

だから「生きていたら(今起こっている嫌なことに勝るほどの)良いことがある」なんて迂闊には言えません。ほとんど嘘だとわかっているから。

それに、その人が「死にたい」と思ったのは本当だし、その痛みを私が完全に理解することはできないわけじゃないですか。
その人の気持ちを軽く扱うみたいで、「死にたい」に対して真っ向から「生きていたら良いことがある」なんて言葉にするのは憚られます。

今生きているだけで、ここまでどうにか生きてきただけで、とにかく本当にすごい。
そんなことぐらいしか私には言えない。

「死にたい」と思ってしまっても仕方がないほど人生はつらい、それは紛れもない真実だと私は思っているから。

心の内を打ち明けてくれる友人に、私ができることなど今も昔もほとんどないとは思うけれど、迂闊に「生きていたら良いことがある」とだけは言えない人間であろうと思っています。

ちなみにそんな私は、人生において「死にたい」と思ったことは実は一度もないんです。
一度もないということにしている、が正しいのかもしれません。

【嫌なことばかりが起こる人生】を歩んでいるつもりになっているのも、宝くじで1億円が当たらないのも、おそらく大多数の皆さんと同じではありますが、謎に「死んでたまるかあああ!!!」というメンタルで生きてきました。

それは「このまま生きていたらきっと良いことがあるだろうなあ」と人生に希望を抱いているからではなく、とにかく「生きているだけでえらい」と思っているからです。

私はえらいから、生きるのです。
生きているから、えらいのです。

それだけで十分だと思っています。

この前友人と「時が経つのって本当にあっという間だね」なんて会話をしていたら、その子が突然言いました。

「なんも心配しなくても、人生すぐ終わるから大丈夫だね」

急角度のポジティブに面食らいましたが、大いに納得です。
どうせすぐ終わるから、なんも心配しなくて大丈夫。
嫌なことをやり過ごして、その後続けて起こる‘‘地味に良いこと100連発’’をぼーっと見届けて、また嫌なことをやり過ごせばいいんです。

元気出そうよとまでは言わないから、まあ仕方ないので明日も生きてみませんかってなところですかね。

私はえらいんだ、死んでたまるかあああ!!!ってなところです。

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