見出し画像

涙は時に暴力的

数年前、友人が自分の身に起きたつらいことを努めて明るく、けれども一生懸命に話すのを数名で聞いていたとき、その中にいた別の友人が、突然誰よりも悲しそうに「つらかったよね」と言って泣き始めました。

ちょっと待て、と私は思ったわけです。

その涙、今じゃないんじゃなかろうか。
少なくとも当事者が泣いていないこのタイミングで、ひっそりとではなく大層悲しそうに泣くなんて、もはや暴力的じゃないか。

身に起こった出来事を話している友人の様子から、なるべく【つらい話】として話したくないだろうことが見て取れて、他の面々はその空気を察して必要以上に悲しむことなく聞いていたのですが、そのタイミングで相手を慮ることなくただただ自分の都合で涙を流したその友人に対して、私は腹立たしさを覚えたのです。

偽善的だ、そう思ったことを記憶しています。

そもそも思い返してみると、私はこれまで人前で容易に涙を流す人を見るたびに「ああ泣けばなんとかなってきた世界線の人だ」と皮肉めいた視線を向けてきたような気もします。

でもそれは自分との対比で、つまり「泣けばなんとかなってきたんだ、いいなあ」という嫉妬の要素も含まれているのかもしれないと思っていたので、たとえ誰かの涙に嫌悪しても「これは感じてはいけない後ろめたい気持ちだ」となるべく押し殺してきたようなところがありました。

けれど、数年前のその出来事によって「涙は、自分の中で嫌悪の対象になり得る」と明確に認識してしまったのです。

もちろん、全ての涙に対して嫌悪感を抱くわけではありません。
その涙によって傷つく人が生まれたり、不当に立場が悪くなってしまう人が生まれたりする場合にだけ、「え?なんで泣いてんの?」となるわけです。

とはいえ、そういった場面でもどうしても泣いてしまうことってきっとあると思うんです。だから、堪えきれずに泣いてしまったのであれば仕方がないと理解はしている。

でも「結果的に泣いてしまった」ではなく、なんというか…ここから先は言語化がすごく難しいのですが…最初から堪えるつもりなどない、ちょっとした傲慢さみたいなものを感じる涙、涙を一種の【武器】のように使っているのではないかと感じた場合にだけ、私はそこに暴力性を感じて嫌悪感を抱くのだろうと思っています。

と、ここまでつらつらと話してきましたが、涙に対する自分の認識が明らかになってから、私はちょっとだけ生きづらくなりました。

というのも、実は私、昔からめちゃくちゃ涙脆い…いや、泣き虫なんです。
それでも人前で涙を流すことには割と抵抗があるタイプだったので、感動の場面以外で、つまり負の感情を抱いた時にはなるべく泣かないように努めてきたのですが、その出来事によってより一層泣けなくなりました。

どんなにつらいことがあっても、悔しいことがあっても、納得できないことがあっても、私は絶対に泣いてはいけないのだ!ズルい人間にはなりたくない!みたいなプレッシャーを自分自身にかけるようになってしまったのです。

だからやっぱり、誰かの涙に対する嫌悪感は「泣けばなんとかなってきたんだ、いいなあ」と「人前で涙を流せていいなあ」という羨ましさから生まれる、嫉妬心で構成されているのかもしれません。

本来は、誰が何を感じるかは自由であって、どのタイミングで涙を流すかも制限されるべきではないとわかってはいるので、もう少し涙に対して寛容になれたらいいなと自分でも思ってはいます。

誰かが泣いているのを見て「なんで泣いてんだよ」って思ったとして、ここまで考えて言語化してしまうなんて、ややこしい人間すぎて自分のことが嫌になったりもします。

とはいえ、人の気持ちを無視した涙には、これからも「え、今じゃなくない?」という感情を抱くだろうとは思います。泣くことの暴力性に気がついてしまった今、それを無視することはできないからです。
それは「自分の都合で人を傷つけるのは良くない」という正義感によるものなのかもしれません。

ま、勝手に思っているだけで、今までもこれからもその場で口には出せませんけどね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?