今こそ、湯治(とうじ)を。
このところ、高頻度で温泉に入っている。去年、観光で温泉に行くのではなく、日常の中で湯治(とうじ)に行きたいと思った。
私は湯治という言葉が使われてきた地域の出身ではない。湯治という言葉はどこかに観光に行った際に知った程度のものだったし、特に湯治をするということが自分の人生において意味を持ってきたわけではなかった。意識して湯治をしたことはない。しかし、2022年の9月に身体と精神のバランスが壊れた時に、ふと湧いてきたのが「湯治の必要性」だった。
2021年7月から2022年に至るまで、全国100箇所以上の家の方々に泊めて頂いたけれど、次々に家を巡っている時には、なかなか身体が落ち着かない。それでもそれぞれの場所になじみ、束の間の時間の中で根を張るような感覚を大事にしてきた。そうするうちに「なじむの早いよね」という声をかけられるようになった。たしかに、以前よりも回遊するモードの中で落ち着きを持って振る舞うことが格段にしやすくなってきたように思う。
この生活の中で温泉に入ることが増えた。回遊する生活では一つの温泉地に長く滞在するというよりも、次々に移動する中で別々の温泉に出会っては入るという感じだ。いろんな温泉に出会うことができるというのはとっても有難いけれど、上に書いてあるような湯治のスタイルとはかなり開きがあった。
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10月に湯治をしたいという気持ちが起こってから、2ヶ月が経ち、湯治のことなどすっかり忘れていた。2022年の夏にヨット競技者の方々と出会ったのだけど、そこから流れが生まれて年末の餅つきに遊びに行く(餅をつく)という出来事があった。そこで声をかけてくださって、「2月に由布院で集まるけど来る?」と言われ「はい」と返事をした。結果として大分行きが決まった。旅の流れは偶然の連続の中で生じる。
23年の1月17日から滞在していた熊本を離れ、回遊モードに移行した。回遊モードの巡り方はその時々でまちまちなのだけど、今回は関西、東京、大分という流れになった。大分にたどり着いた時に思い出したのが、件の温泉のことだ。
「そうだ、湯治をしたかったんだ」と思い出した。
幸いにも別府にはゲストハウスがいくつもあって、2000円〜3000円でも泊まることができる。
私の回遊時の生活は、一面的にはお金がない旅行と似ている。冬にどうしても泊まる場所が見つからない時には宿を取るのだけど、基本的に手元にあるお金は循環させることを意識しているので、予算が常に潤沢にあるわけではないので、宿に泊まることが増えると、一気にお金が減っていく。
一方で、もう一方でシステム化されない人の縁によって生かされていて、泊まる場所が現れるということはそのいい例だ。「泊まっていいよ!」と言ってくださる方との出会いや、現地の泊めてくれそうな方を遠隔地から紹介してくれる方が現れる時には、そこが高単価を目指す観光地であろうが無かろうが関係ない。もちろん、そこで家賃を払ってくださっている方がいるからこそ、屋根・壁・床を確保することができる。本当に有難いことだ。最近は、このあり方を「金銭換算することから離れた無価格の流れ」と呼んでいる。特に観光地で生まれる家への滞在は一時的なシェルターのようなものだ。
この1年半、観光地を巡っていると、特に観光地の方々からは、観光商品を整え、高単価のサービスを作っていこうという話を聞くことが多かった。昨年は実際、ウクライナの情勢の影響による原油価格の上昇やさまざまなものの値上がりを私たちは経験しただろうから、基本的には提供するものの単価を上げていくという方向に移行していくのもうなずける。ただ、私は前述のように瀕死のダメージを受ける。観光地には寄り付かないようにしていた時期もある。
ただ、別府はゲストハウスがあるので、わりと滞在しやすかった。滞在する時の金銭的負担が減るから、その土地を楽しむことに意識を向けることができる。価格が高い場所にアクセスすることは難しいが、土地での滞在時間が延び、いくつもの温泉を楽しむことができた。
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そんな別府滞在を経て、由布院に移動した。由布院でヨット関係者の方々とお会いし、由布院の別荘地に1泊させて頂いた。先ほど私の生活を2つの面から説明したが、こういう宿泊はお金があるかどうかというよりも、価格のつかない縁の流れによるものだ。
別荘地はこの方々の所有の場所ではなく、貸し切りのスペースとして日々運用されている場所だったので、泊まり続けることは叶わない。1泊した後は、別府の方が滞在しやすいので、別府に再度行くことにして、ゲストハウスに宿泊した。
次の日はもう一度由布院にやってきた。この日はとあるカフェに行くことになっていた。このご縁は、説明すればするほど偶然でしかないので、その流れは割愛するのだけど、たまたま私が長野で出会った陶芸家さんが由布院で作品を展示される期間に私のパートナーのジュエリーも置いてもらうことになったという話から、私の人生に「由布院」という文字が飛び込んできた。
その展示期間は4月8日からなのだけど、別件のヨットの流れで私が由布院に流れ着いたものだから、「(パートナーが)展示する場所を下見してもいいですか?」と言った結果、そのカフェにたどり着いたのだ。
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カフェに着いて、カフェのオーナー(Iさん)と、その方と共にギャラリー展示の企画をされている、普段は東京に住んでいる方(Sさん)とお会いした。Sさんは以前からこのカフェのギャラリー部門の方々と仕事をご一緒されているのだけど、普段は由布院にいるわけではなく東京にいる。お会いすることになったこともたまたま由布院入りする日程が重なったからで、全く計算していない嬉しい出来事だった。
IさんもSさんもすごく素敵な方々で、話に花が咲いた。さてーーーというところで、「三浦さん、知り合いのHさんと相性がいい気がします。由布院の方なのですが、ご紹介してもよろしいですか?」と言われた。私は時間には余裕があるので、断る理由がない。
ちなみに、この時点では別府の方に泊まろうと思っていたし、基本的に泊まる場所を探しています!としきりに話していたわけでもないので、有り難く作って頂いた流れに従い、Hさんに会いに行くことになった。
Iさんの車に乗せられて、Hさんがいる場所にたどり着いた。驚いたのだけど、Hさんはお宿を経営されている。まず敷地がめちゃくちゃ広い。至るところから湯気が立っている。全ての建物がつながっているわけではなく、お宿の離れがバラバラに分散して建っている。建物が点在する温泉を中心とした集落という感じの風貌だ。
その敷地はなだらかな坂になっている。坂の上の方には露天風呂がある建物があり、その建物の2階はカフェのような開けた場所になっていた。2階に上がるとHさんが待っていた。Hさんが珈琲を淹れてくれて、IさんとSさんとHさんで雑談を始めた。Hさんは何度も「流れだからね」と言っていた。突拍子もないことでも流れとして受け取ってくださる寛容さがあるがゆえに、Iさんが私を紹介しようと思ったのかもしれない。私も話していて、Hさんの受け取る余白の広さを感じていた。
雑談自体は大変面白く、話も盛り上がった。そろそろSさんが別府を経由して東京の方に帰らないといけない時間になった。解散することになった。
私も夜は別府かな?と思っていたので、Sさんの車に乗せてもらうという話になったのだけど、帰り際にIさんが「もしよかったら、Hさんに三浦さんが泊まれるかどうか、頼んでみてもいいですか?」と言ってくださった。IさんがHさんにその旨を伝えると、「いいよ、流れだからね」とのことで、お宿に滞在するということが決定してしまった。このHさん、一般的な旅館経営者とは異なる思考の仕方をしている。「別に予定がぎっしり詰まった生活じゃないんでしょ?とりあえず数日、滞在しなよ。流れのままに」と声をかけて下さったので、滞在日数が決まっていない、お金の話も一切していない、無価格な滞在が始まった。
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その場所こそが、湯治を大事にしている場所だったのだ。お宿のHPでは、「新しい湯治文化を提案している」と書いてあった。
観光客の方々にも日帰り入浴として露天風呂を提供しているけれど、Hさんはメインは湯治型の滞在のきっかけを提供することだと思っていた。
この場所に滞在している時に、ひたすら温泉に入った。滞在中、別にバリバリ何かを進める必要があったわけでもないので、温泉、作業、温泉、作業、温泉、温泉、作業、温泉と、ひたすらに湯に浸かった。入るたびにどんどん気持ちがほどけていく。時々Hさんとタイミングがあった時には雑談をして、「情報としての湯治」にも触れていった。
温泉に入るたびに、自分の手足をだらんと湯船に伸ばし、握っていた手をひらき、口元に入っている力をゆるめ、目を半開きにする。思考優先になろうとすると、目に力が入ったり、手をギュッと握ったり、身体は忙しいものだけど、お湯に浸かっている間、強(こわ)張っても仕方ない。ほどくことを繰り返した。繰り返すうちに、身体がゆるんだ状態を覚えていく。意識とかメソッドとか、必要がない。
朝は、まだ誰もいない露天風呂に一人で入って、太陽が登ってくる様子を眺めた。湯気の立つ水面は神々しく光るのを見ていると気持ちが開けていく感じがした。
昼は太陽の光が反射して、水面がキラキラと光る様子を楽しんだ。光の反射を直視すると、とても眩しいので、目をそばめながら、ゆらゆらとお湯に浸かる。水面の反射の先の天井にはゆらゆらする影が息づいていた。影をひとしきり楽しんでから露天風呂の柵の外に目をやると、由布岳がこちらを眺めているのを見つけた。
夜は星空を眺めながらお湯に浸かった。朝・昼と比べると湯気がもくもくと立っていて、湯けむりの中で居心地よく時間を過ごすことができる。星空がそのまま落ちてくるように近く、どこまでも手が届かないくらいに遠い。美しい情景に息を飲む。
これを数日やっているうちに、朝起きたらすぐに身体が温泉を求めるようになってきた。身体が温泉に向かおうとするのだ。頭で「めんどくさいな」と思っていても、身体は心地よさを覚えているから、身体が向かおうとする。
ずいぶんと身体がほぐれ、気持ちも楽に在れる時間が長くなった。2023年になってから、基本的に楽に在ることができる時間がとっても増えていて、心配や不安が起こるということ自体が減っているのだけど、温泉地にいる時の私はその比じゃないくらい緩んでいる。そういう状態でいるとアイデアもよく出てくる。身体が緩んだ時に出てくるアイデアは信頼できる。
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Hさんとは色々と話した。Hさんはバックパッカーとして世界を歩いていた時期があり、さらに創作活動もされていたようだ。30歳くらいになって、たまたま奥さんが由布院のお宿の経営をされている家だったから、それを縁にこの場所にたどり着いたのだそうだ。
これまで、経営や数字を見ながら、そして、日々コントロールすることができない自然そのものである源泉を相手にしながら、「もうどうしようもない。もうだめだ」と思ったことは何度も、何度も、何度もあったそうだ。でもその時にも温泉があることがHさんを支えてくれたらしい。
「温泉が無かったら、ダメだったと思う」と語るHさん。続けてきてくださって、本当にありがとうございます。
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話の流れで数日間、ただひたすら泊まっていただけだったが、4日目くらいからお宿の片付けとベッドメイキングのお仕事を2時間半くらいお手伝いすることになった。この流れで、泊めてもらう対価というよりも、身体を動かす機会としてやることになったことだ。そもそもHさんはお宿の経営をしながらお金じゃない価値の交換で泊まってもらうことに好意的だ。
「一連の仕事を覚えておくと、他のタイミングでやってくる時にいつでも来やすくなるし、身体動かす機会になっていい感じだよ」と語っておられたのだけど、確かにそういう面はあって、こちらもそのコミュニティの方々に貢献するきっかけをつくることができるのは、大変ありがたいことだ。手伝った後に温泉に入ると、また温泉が身体に染み入る感じがして良い。
Hさんは、さらに、「手伝うと泊まることができる(=手伝わないと泊まることができない)」という考え自体も、ひっくり返した。価値の交換すら前提とせず分かち合う心を持ってらっしゃった。「いつフラッときてもいいよ。その時に何かやるのも、やらないのも決めても仕方ないし、その時の流れ次第だからさ」という言葉を頂いた。そう言われると逆に手伝いたくなるものだ。バランス感覚のあり方から学ばせていただくことが多い。
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Hさんが見てきた由布院の町はここ数十年で観光地化に成功した。いまだに全国区の温泉地として観光客が多い。この30年を見て、Hさんは由布院は「観光地じゃなくなってきた」と言う。価格はどんどん上がり、売られているものも由布院ローカルのものが減ってきた。もともとギャラリーが多かったらしいのだけど、観光地化が進んでいくにつれて、Hさんが面白いと感じていたギャラリストの方々はいなくなってしまったのだそうだ。
「観るに値するところがどんどん無くなってきていて、観光地じゃなくなってきてるよ」というHさんは少し遠い目をしていた。
観光って何なんだろうか。お金が稼げる地域なのか。高単価で稼ぐことができる素敵な空間を伴ったお店やホテルが全国に増えゆく中、素敵さが故に似ているデザインのものも増えてきたように思う。ローカリティに基づいた個性のようなものがどんどん消失していっているのかもしれない。映える場所は強い。ただ、その背後で消えゆくものもあるのだ。
ローカルな生活があるということと観光地化が進んでいくことの間のギャップは今後ますます大きくなっていくのかもしれない。
湯治が人の生活から遠のいているのは、観光と温泉が強固に結びついていて、高単価化になっていっている現状も影響しているのだろう。2、3週間、一箇所の場所に泊まりながらゆったりと時間を過ごすことも現代のライフスタイでは難しいのかもしれない。働くことであまりに忙しいと、生活が調わなくなっていく。ワーケーションは一つの選択肢として、湯治のしやすさへとつながりうるだろうか。
私は湯治はとても大事だと思った。ロジックがどうとか、数値がどうとか、そういうことはわからないけれど、実感として私は大事にしたい。
温泉に日々入りながら、頭、心、身体、精神をいい感じに調えている方が、出会った方々といい感じの時間を過ごしやすいのは間違いない。あと何より、裸になって、お湯に入る時には、リセット感があって、良い。
まずは数日と言っていた滞在は結局1週間くらいになった。由布院にはまた3月の末に入り、4月8日の滞在まで泊まろうと思っているので、また温泉の日々を過ごすのが楽しみだ。
ただ、今は熊本の方に移動したのだけど、こちらの方でも湯治ライフを送ることができている。よく滞在している拠点のわりと近くにも湯治ができるところを見つけたのだ。朝起きて、作業をして、バスで移動し、温泉に入る。わりと温泉施設にいる時間は長く、作業と温泉を行ったりきたりしながら、安らかな時間を過ごすことができている。歩いて1分のところに温泉があった大分での滞在と比べると多少遠いが、交通費込みで500円で悪くない選択肢だ。何よりも自分の身体が温泉を求めているので、それに委ねて通ってみることにしている。
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観光と生活。観光での温泉入浴と湯治。まだまだ書きたいことがあるのだけど、湯治の生活は心からお勧めしたい。こころもからだもほぐれるにつれ、人生はゆたかに、愉快になっていくと信じている。