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【エッセイ】 ひぐらしと目覚め

アラームの音で目が覚めた。寝ぼけ眼をこすりながら起き上がり、畳の上に置いてある制作の道具を踏まないようにしながら、部屋の反対側にある電気のスイッチをつけにいく。早起きが苦手な私は、早く起きることができて嬉しく思った。

玄関で雪駄を履き、泊まっている建物の外に出る。「リリリリリ」と虫が鳴いている。朝4時45分。気温はそれほど高くないが、少しだけ湿気をはらんだ空気を感じた。

温泉に向かうほんの数分の歩き道、山の方からひぐらしの声が聞こえてくる。その声を聞くと身体が軽くなり、じんわりとした感覚が広がった。

露天風呂がある建物に入り、さらに奥にある温泉への戸を「カラカラカラ」と開けた。湯気が立ち昇っている水面は、幻想的だった。温泉の向こうには林があり、林の上の方には空との境目が見える。山際は白んでいて、すでに1日の始まりを知らせていた。

身体を洗ってから、湯船につかる。身体をふわりと伸ばして、力を抜く。そして、先ほどのひぐらしの声を聞き取ろうと、私は沈黙そのものになった。最初は継ぎ足される温泉の音が聞こえてくる。さらに、林の前に流れている川の流れが聞こえてきた。15秒ほど経って、ようやくひぐらしの声が耳に届く。先ほどの散歩道よりもその声は小さく聞こえた。だが、声は小さいけれど、確かに彼らは鳴いていた。

ひぐらしの声を聞くと思い出すことがある。

それは2022年7月7日の朝のことだ。

私は、2021年7月7日から全国を巡りながら生きていた。その日たどり着いたのは、糸島のお寺だった。その前の1週間ほど、糸島の文化関係の方に糸島の方々をご紹介してもらい、さまざまなところに泊めて頂いたのだけど、その中のひとつがそのお寺だったのだ。

そのお寺には、とても素敵なお庭がある。お坊さんと話しながらお庭を眺めることができる部屋の畳の上に座り、生き生きとした植物たちを眺めた。そのお坊さんは物腰やわらかで、とても安心感がある方だ。

お寺を訪ねた次の日に「朝座禅にいこう」という話になり、次の日4時に起きることになった。私は今と変わらず、1年前も早起きが苦手だったので、起きれるかどうか不安だったが、次の日、驚くほどスッキリと起きてしまった。

朝座禅することになっている場所は、そのお寺ではなく近所の別のお寺だったので、お坊さんが運転する車に乗り、移動することになった。車に乗る前、ひぐらしの音が耳に届いた。特に気を留めず、私は車に乗り込んだ。

車を運転しながらお坊さんが話す。

「朝早く目覚めると、虫や鳥たちが少しずつ目覚めていくのを感じることができるんですよ。4時くらいから、ひぐらしが鳴き始めます。30分もすると、少しずつアブラゼミの声の音量が増していく。一方で、ひぐらしの声は少しずつ聞こえなくなっていくんです。」

車で移動をしていたのは、4時30分頃。窓を開けて外の音を聞いてみると、車の音でかき消されてはいるが、ひぐらしとアブラゼミの声が両方届いた。
 
「他の生き物たちが目覚めていくのを、早く目覚めると味わうことができる。それがすごく贅沢でね。」

そう語るお坊さんは、とても清々しい顔をしていた。

目を開けると、温泉の湯気の中に包まれていた。

「カナカナカナカナ」

林の中に元気の良いひぐらしの声が響いている。ここは糸島とは違う生態系の場所だ。ひぐらしの鳴く時間帯も異なるだろう。

今日、ひぐらしの声を聞くことができたということに深い嬉しさを感じた。

「目覚めて、心地よくなっていい」

そんな言葉が頭の中に浮かんだ。

ひぐらしの声を聴くということは、私にとってごほうびのようなものだ。少しだけ早く目が覚めなければ、朝のひぐらしの声は私の世界に届かない。

今日も目が覚めて、ひぐらしの声を味わう。
今日も目が覚めて、この朝を味わう。

世界がほんの少し豊かになったように感じた。


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