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りんごの滝が流れ、世界にはシャリシャリ音が溢れる(8月8日〜10日: 長野・小布施町滞在)

突然ながら24年8月8日に長野滞在の機会に恵まれた。訪ねたのは小布施町。栗で有名な地域だ。文化的には葛飾北斎が滞在したこともある地域で、北斎館もある。

その地域に行くことになったのは、家が無かったからだ。もう少し丁寧に書くと8月7日の夜、8日〜11日の泊まる場所を確保していないことに気づき、FacebookとInstagramにこのような投稿をした。

8/8-8/11の滞在場所が未定でフリーです。
泊めて下さる方がいたらご連絡下さい。

・空いてる部屋や場所があるのでどうぞ
・お盆前後で家が空くから留守番よろしく
・手伝ってほしいことがあるから手伝って

など、状況に応じて臨機応変に〜

こちらの希望としては、

・ただ今関東にいて、8/11に鎌倉で予定があるので、関東圏で泊まることができる場所だと有難い

という状況です!

1日2日、2泊3日、3泊4日など、家の門戸を無理なく開くことができる方がいらっしゃったら、どうぞよろしくお願いします

では!

PS. 全く関係ないけど、横須賀美術館のエドワード・ゴーリーの展示を見てきました。ありがとうございました!

その結果、博多のヨット競技者の方と長年マラソンをやってきた小布施在住の方が連絡をくれた。博多は少し遠かったので、長野にすることにした。「行きます!」と連絡をして移動手段を検討する。お盆の前ということもあり、バスの値段が少し高くなっているが、そういう時期なので仕方がない。しばらく検討した上でバス移動に決めた。

新宿からバスに乗り、長野駅へ。その後、しなの電鉄に乗って小布施町に着いた。2年前にお会いしたKさんに合流した。

この生活をしていて面白いなと思うことは、泊まる所が無くなると泊まる場所が現れることだ。泊まる所は出現する。背後にあるのは人のつながりで、「泊めて下さい」というリクエストに対してお誘いがやってくる。

自分自身のあり方がいい塩梅に調整できなくなることが続くと、泊まる場所が生まれる流れも枯渇してしまう。あくまでも信用・信頼が重要だ。

小布施町に着いたのは遅い時間だった。8時過ぎに起床。移動の疲れか、ほんの少し身体が重い気がした。ストレッチをすると身体がいい感じになり、身体に流れが通った感じがした。

Kさんに朝ご飯を頂き、滝を見に行くことになった。見に行ったのは「雷滝」。めちゃくちゃ勢いよく流れる水に圧倒された。

山から染み出して、高いところから低いところへ流れ出して行く水のエネルギーはとんでもないね。滝を見ながら、自ら滝になってみる。滝との間の距離を0にしてみる。自分自身の中にも滝を通してみた。精神の外部からどこからともなく水のイメージが勢いよく通り過ぎて行く。最近は水のイメージが広がりやすい。

その後、一度家に帰り、オンラインの仕事を2時間半だけ行った。終わった後にKさんと草むしりをして、シャワーを浴びた。これが気持ちいいんだよね。それでツルヤに買い物に行って、鶏肉や調味料を調達し、カオマンガイを作って食べた。いい気分なので、食材費は出させてもらう。お金は気持ちよく流して行く。滝から学んだことを実践する時だ。有り難く食材たちを受け取った。家に帰って、キッチンを軽く掃除して、そこから楽しく作ってKさんとKさんの友達と食べた。お金もモノも、気持ちも汗も流していった。

そういえば、Kさんはよくりんご農家さんの手伝いをしているらしい。

「しょうけいさんも、りんごをもぎたい気持ちになったら、秋に連絡ください」と言って下さったのだけど、これにピンときた。

私は幽玄会社テンプルというアートプロジェクトをやっているのだけど、その中のひとつの流れに食糧他給センターという名前をつけて遊んでいる。私はこの3年間、とにかくたくさんの方々にご飯を食べる機会を頂いてきた。食べることができると、生きることができる。

食べる機会や食べモノ自体を頂くことが多い生活では、そのご縁が生じた時に生きることに直結するので、食べること行為自体が喜びを生むものになってきた。その感覚はあふれんばかりになり、外に流れ出るようになった。食べさせてもらっているのだから、周りにも食べさせよう。他給されている人間が他給をするという遊び、それが食糧他給センターだ。

他給されている人間がおこなうのだから、別に受け取る人との間で上下関係が生じない感じがする。他給の元を辿って行くと、自然環境から圧倒的に頂いているということに立ち戻る。

食わせてもらっているぜ、人類。

りんごの話を聞いた時、りんごのお手伝いと食糧他給センターのアイデアがつながった

そもそも地球の土があり、空気があり、水がある。それを前提にしてりんごを育てて下さっている農家さんがいて、その流れをご紹介して下さるKさんがいる。商品として出荷されるりんごもあるが、同時に規格外として出荷することができないりんごも生じるらしい。しかも、その量はたくさん。だいたいは旬のままに近くにいる方々にお裾分けされていくのだそうだ。

私の頭の中では、めちゃくちゃりんごが大量発生した。次々に収穫をして、カゴにりんごを入れていく。りんごを選別するおばあちゃんたちにお任せする。りんごを収穫しては、それをおばあちゃんたちのもとに運んでいく。流れ作業だ。身体は適度に疲れるが、いい汗が流れる。

仕事が終わると、お裾分けのりんごが手元にやってくる。5個の時もあれば、10個の時もあり、0個の時もある。りんごの量はコントロールできない。しかし、商品になることから解放されたりんごたちは今か今かと踊り散らかしている。

お手伝いをすると少しばかりのお金が流れてくる。りんごにお土産としてお金がついてくるのだ。棚ぼたのお金を手にすると、りんごを購入する。お裾分けされるものもあれば、購入するりんごもある。商品になったものと規格外のものが集合する。味は変わらない。めちゃくちゃうまい。

いったん集まったものは勢いよく散っていくのだ。りんごを手に入れた私は、SNSにりんごの投稿をする。その投稿に反応を下さった方々に運輸の力をお借りしながら発送する。全国でお世話になっている方々が多すぎて、手元のりんごは勢いよく旅立っていく。かわいい子には旅をさせよ。発送した先でりんごを受け取ってもらう景色を想像しながらニヤニヤする。瑞々しいりんごをシャリシャリ食べる人たちがいる。その音は秋の醍醐味だ。

さらに残っているものを手元に持って移動し、泊まらせて頂く場所で、時にりんごのメッセンジャーとなり、家主さんと一緒に世界のシャリシャリ音を増やす。

また時にりんごの行商人となり、お金を渡したい人にはりんごを売っていく。

商品でも規格外でも、どちらでもいい。
お金に引き換えようが、引き換えることができなかろうが、どちらでもいい。

重要なのはイメージで、りんごは滝のように押し寄せ、流れ出していくのを邪魔しないことだ。

私の頭の中はりんごで溢れてしまった。あたり一面がりんごだ。赤一色に染まって行く世界。りんごの流れに溺れるということが起こった私は、すでにりんごを味わった。ついでに、自分がりんごであるという想像もしてみる。私は私に食べられる。私は私の細胞となり、私はさらにりんごになっていく。そこに区切りはない。世界はりんごで出来ている。

無いものは有る。有ることによって満足する。満足すると、現実世界で手放しが起こる。未来から収穫したりんごを堪能した私は、満足した。

未来の一時点でりんごを収穫しているかどうかなんて、もはやどうでもいい。

りんごの収穫シーズンはもう少し先で、早いりんごは9月から、メインである「ふじ」の収穫は11月末〜12月ごろが一番の収穫期らしい。

収穫の予定は立てない。
ピンと来たら動く。

りんごをもぎたい気持ちになったらKさんに連絡するのだ。

そんなことを体感した小布施の滞在だった。

あと、関係ない話だけど、Kさんと会ったのは2年前だったのだけど、びっくりすることに私が小布施を訪ねた日は2022年8月9日で、私が今回訪ねた日もまた8月9日だった。

世の中は偶然で出来ているのだろうか。Kさんがピンと来て、「小布施に泊まりにおいでよ」と連絡をくれたことで形になった小布施滞在だったが、思わぬイメージの収穫物を(手にしていないが)手にして、楽しかった。

イメージをして、ピンと来て、身体を動かすと起こる。

イメージをする時と実際に身体を動かして食べる時に、美味しさは二度やってくる。

最終日の10日、朝ご飯をKさんと一緒に食べて、ゆったりと朝の時間を過ごした。部屋の片付けをして、出発する時間になった。なんとKさんは小布施から小諸駅まで車で送ってくれて、私は関東方面へ伸びる電車に乗って長野の地を後にした。

私の2日間とりんごの世界へのお誘いをしてくれたKさんには今回も感謝しかない。

お会いできて何よりでした。またピンと来た時に、お会いしましょう✨

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