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「天使のいない世界で」第3章 深緑色のやさしい瞳(3)

 *   *

 ところどころ塗装の禿げた、ミルクティー色の壁紙。色あせたレース編みのカーテン。
 ここは、天使信仰者である少女――アンナの自宅だ。半島の頂上に位置する勇者城から遠く離れた、海にほど近い場所に建つ古びた家屋である。
 壁が薄いのか、隣家からの物音が絶えず聞こえてくるため落ち着かない。

「今、紅茶を入れますね」
「う、ううん! 本当に大丈夫! わたしたち、用事が――」
「そういうわけにはいきません。お二人はアンナの恩人ですから。すぐにお兄ちゃんが帰ってくると思うので、少しだけ待っていてくださいね」

 そう大人びた口調で言うと、アンナは赤毛をなびかせながら台所へと消えていく。その背中を見送りながら、テーブルセットの椅子に腰掛けたメイは小さなため息をついた。

 もとから安全な場所まで送り届けるつもりではあったが、お礼がしたいからと引き留められて今に至る。
 ここに向かう段階で、すでに船の出航時間は過ぎてしまった。
 次の定期船が出るのは今晩。明日は欠航日であるため、今日を逃したら明後日の出発になってしまう。

 罪のない少女を救ったことに後悔はない。
 あのとき見てみぬふりをしていたら、それこそ間違いなく自分を責めただろうし、アンナは今ごろ城に連行されてしまっていただろう。それは絶対にあってはならないことだ。
 しかし、全てをうまく割り切れるほどメイは大人じゃなかった。

(今この瞬間にも、ジュジュさんがどこかに行ってしまうかもしれない。それに、奪われた羽根がどうなったのかもわからないまま……)

 もし出発を見送って明後日まで羽根を探し続けるというのなら、今度は宿を確保しなければならない。果たして、生誕祭期間中の今、空き部屋なんてあるのだろうか。
 一番合理的なのは、羽根を諦め、今晩の定期船に乗って島を発つことだ。それはわかっているのに、本当にそれでいいのかともう一人の自分が必死に声をあげている。

(……迷ってる暇なんてない。ちゃんと、決めなくちゃ)

 しかしうまく考えがまとまらず自然とため息が漏れたとき、ガタ、と椅子を引く音がした。テーブルを挟んだ正面に腰掛けていたエルが、おもむろに席を立ち歩き出したのだ。
 ぴりぴりとした空気を放つその背中を、視線だけで追いかける。彼が向かったのは、壁に沿って置かれている石造りの暖炉の前だ。

 メイは迷った末に立ち上がり、遠慮がちに彼の元へと歩み寄った。

「あの、エルさん……」
「何」

(――あ)

 返ってきたのは、別人のもののように刺々しい声だった。振り返りすらしてくれない。
 覚悟していた以上に胸が大きく痛んだが、メイは自分を奮い立たせてもう一度口を開いた。

「さっきは、本当にありがとうございました。エルさんが兵士の方を連れてきてくれなければ、危ないところでした」
「……」
「そして、ごめんなさい。わたしのせいで、ご予定が狂ってしまいましたよね」

 返事はない。ぱちぱち、と暖炉の火がぜる音だけがやけに大きく部屋に響く。

(……やっぱり、怒ってる……)

 ここに来るまでの間、彼はメイと言葉を交わすことはおろか、目を合わそうとすらしてくれなかった。前髪で隠れているけれどなんとなく視線が向く先はわかるため、きっとその通りなのだと思う。

 本人から聞いたわけではないが、おそらくあの現場に偶然通りかかって助けてくれたのだろう。そのせいで、恋人を探す計画を狂わせてしまったに違いない。

(愛する人なんだから、早く会いたいよね……)

 けれど、きちんと謝罪しなければという気持ちとは裏腹に、『恋人』という単語はどうしても口にすることができない。

 言葉を探してエルの背中を見つめ続けていると、ふと、暖炉の上に置かれた小さな肖像画が目に入った。そこに描かれているのは、一組の男女だ。教会を背に、肩を寄せ合い幸せそうに微笑んでいる。どことなく、それぞれからアンナの面差しを感じた。

(お父さんとお母さん、なのかな)

 道すがら、両親は天使狩りに巻き込まれて命を落としたのだと聞いた。今は、年の離れた兄と二人で暮らしているらしい。

(……天使を庇って亡くなったんだよね。きっと)

「なんで庇ったりした?」

 心を読んだかのようなタイミングで、エルがぽつりとつぶやいた。心臓が大きく跳ねる。

「そ……そうですよね。天使なんて庇わなければ、お二人は今も――」
「違う。さっきの話」
「さっきの?」

 エルが無言のまま振り返る。焼け跡の残る顔に浮かんでいる表情がなんなのか、すぐにはわからない。ただ、メイに腹を立ててることだけはたしかだった。

「……すみません。わたしのせいでエルさんにご迷惑を――」
「自分が危険な目に遭うって、わかってたはずだろ。善人ぶるのもいい加減にしろよ」
「善人ぶる……?」

 標準語でぶつけられた言葉に、本当の自分を映し出されたような衝撃が走った。
 最初は自分の身を守るために逃げ出そうとしたくせに、アンナの前では最初から助けるつもりだったかのように振舞っている。エルはそのことに気付いて、指摘しているに違いない。
 それに、と彼の言葉は続いた。

「人探しは? ここでもたもたしてる間に、会えなくなってもいいっていうのか?」
「まさか! そんなわけないでしょう!?」
「だったら、どうしてあの子を庇った? どう考えても、無視して先に進むべきだったろ」

 厳しい声に、言葉を呑み込む。押し黙ったメイを見下ろし、エルはなおも続けた。

「自分よりも他人を優先するなんて、馬鹿のすることだ」
「……たしかに、わたしは馬鹿でどうしようもない……。自分でも、それはわかっています。だけど、アンナちゃんを助けたことを後悔はしていません」

 わたしは、とひとりでに言葉が滑り出す。

「困っている人に、迷わず手を差し伸べられる自分になりたいから! 昔、道に迷って泣きそうになっているときに助けてくれた人がいて……だから、その人みたいになりたいって思ってるんです!」

 メイが珍しく声を張り上げたからだろうか、エルが息をのんだのがわかった。

(そうだよ、わたしはあの人に恥じない自分でいたい。だから、やっぱりあれでよかったんだ。今回もしジュジュさんに会えなかったら、また一から探し直せばいい)

 けれど、奪われた羽根は――。
 心にまた影が差したときだった。

「……本当に馬鹿だな」

 エルの微かな声に被せるようにして、玄関扉が開く音がした。

「アンナー? 戻ったぞ」

 温和そうな、初めて聞く男性の声だ。アンナの兄が帰ってきたのだろう。
 居住まいを直す間もなく、その人物が現れる。
 白シャツに茶色を基調にしたタータンチェックベストを合わせた長身の男性だ。すっきりと短く切られた赤髪から、爽やかな印象を受ける。
 アンナと同じ黒い瞳と、視線がかち合った。

「ええと、あなた方は……?」
「お兄ちゃん、おかえり! ……あの。実はね、今日――」

 アンナから事情を聞いた男性は、話が終わるなりメイに向かって深々と頭を下げた。

「心より感謝します。妹を助けていただき、本当にありがとうございました……っ」

 メイは慌てて、「顔を上げてください!」と彼に声をかけた。

「わたしは、感謝していただくようなことは何もしてないんです。全部、こちらのエルさんが助け舟を出してくれたおかげで……。……最初はわたし、逃げようと――」
「それ以上おっしゃらないでください。あなたが妹を見捨てなかったことは事実なのですから」

 そう言い、男性はやさしく微笑んでくれた。彼はカインと名乗り、今度はエルへと丁寧に感謝を伝える。
 やがて。

「お礼といってはなんですが、これを受け取ってください」

 戸棚を開けてなにやらごそごそとしていたカインから差し出されたのは、二通の封筒だった。

「今晩、城で勇者様の生誕パーティーが行われるでしょう? その招待状です」
「え……?」

 思わず声が漏れた。一方、隣に立つエルは、黙ってカインの話に耳を傾けている。

「僕、こう見えても、勇者様専属の仕立て屋としてお給金をもらっていて……その関係で、招待状を何枚かいただいたんです。もしよろしければ、お二人で参加なさってください」

 そう説明し遠慮がちに微笑みかけてきたカインはいたって低姿勢で、勇者に重用されているというのに得意げになっている様子はまるでない。

「じゃあ、ありがたくもらっておく」

(え?)

 メイが何か答えるより先に、エルがカインの手から迷いなく封筒を抜き取った。

「受け取っていただけてよかった。その……妹を……天使信仰者を助けてくださったので、勇者様を支持していらっしゃるわけではないのでは、と思ったのですが……」
「まあ、その通りだけど。パーティーには興味がある。ただ、それだけだ」

 ぶっきらぼうに答えたエルを見ながら、メイは何も言えずにいる。

(この人は、誰だろう)

 人懐っこくて太陽のように明るい、誰とでもすぐに打ち解けてしまう『エル』と同一人物だとは思えない。言葉遣いのせいかもしれないが、いつもの彼とはあまりに雰囲気が違うのだ。
 記憶を取り戻したからといって、ここまで変わってしまうものなのだろうか。 

(それに、勇者の生誕パーティーに参加するつもりだなんて。どうして……?)

 ふと、アネモネの花を見上げていたエルの姿を思い出した。あのとき、そして花屋に立ち寄ったとき、彼の様子は明らかにおかしかった。
 どうして今それを思い出すのかわからないが、無性に胸がざわつく。

 声もなく立ち尽くしていると、アンナがトレイを手に戻ってきた。

「やだ! お二人とも、座ってください!」

 使い古した木製のトレイには、鮮やかな琥珀色をした紅茶と、皿に綺麗に盛り付けられた焼き菓子が乗っている。どちらも、この質素な家には似つかわしくない上質なもののようで違和感を覚えた。
 顔に出てしまったのか、テーブルにティーカップを置きながらアンナが苦笑いを浮かべる。

「これ、お兄ちゃんが勇者からもらったものなんです。あいつ、しょっちゅう新しい服を仕立てて……贅沢もいいところですよね」

 あいつ、そう言った口調は刺々しい。

「アンナ。そんなことを言うもんじゃない。あの方が俺の仕立てた服を気に入って重宝してくれているおかげで、こうして生活できているんだ。感謝の気持ちを持ちなさい」

 ちょうど配膳を終えたアンナが、信じられないものを見るような目を兄に向けた。

「感謝? あの人のせいで、お母さんとお父さんは殺されたんだよ。お兄ちゃんは悔しくないの? ……最低っ! 大嫌い!」

 全身で叫んだかと思うとトレイを床にたたきつけ、アンナは部屋の後方に向かって駆け出した。そして、そこにあった扉へと勢いよく入っていく。

「アンナ!」



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