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🐻個人の自由を極限まで追求すると、熊と戦う羽目になる?🐻

今年は熊による被害のニュースが本当に多いですね。京都でも僕のランニングコースに近いところで熊に襲われる事件が起きました🐻

日本では熊が餌の減少により山から下りてくることが原因のようですが、まさに今日読んだ本に興味深いエピソードがあったのでシェア。

「リバタリアンが社会実験してみた町の話」

というノンフィクションの作品。一見熊とは何の関係もない内容のようですが、いたるところに熊と人間の対決のエピソードが出てくる。

なぜか。自由至上主義者が集まる街で、税金を極限まで低くして個人の自由を追求するユートピアを作ろうとしたところ、熊がめちゃくちゃ増えて家畜や作物を守るために戦わないといけなくなった、という話。

もちろん熊は象徴でしかない。熊は具体的には自然の脅威の象徴である。税収が少ないので公共サービスに予算を避けず、インフラが老朽化したり、野獣被害への対策が取れなくなって個人で銃をもって熊と戦わざるを得ない、火事が起きても消防車が来ない、豊かな自然が保護されずに朽ち果てていく、などなど。

それに加えてリバタリアンは行政の介入も拒むので魚類鳥獣局?も手を出せない。挙句の果てには熊に餌をやる権利!を主張して餌をばらまく住民まで登場。

この本では自由主義を追求することの末路、までは書かれていない。
日本ではリバタリアンよりも社会民主主義的なリベラリストもしくは保守の人が多そうなので、日本ではリバタリアンの街ができる可能性は少ないが、別の要因で同じような社会課題が生じる可能性が高い。 すなわち、人口減少によって税収が減り、インフラが老朽化して地方都市に自然災害が頻発したらそこに人が住むことができなくなる。そんな日本の未来とこの作品のえがく世界がリンクして暗い気持ちになった。

ではどうすればいいだろう。この本には「自治」というキーワードがほとんど出てこなかった。もしくはリバタリアンとそうでない住民の間でいさかいが起きていて民意のコンセンサスがとれていなかったのか。

いずれにしても、お金という価値が少ない場所で、それでも安全で豊かな生活を営もうとする場合、社会関係資本、すなわち「人とのつながり」が必要なのではないか。それがあれば、つながりの中で一致団結して熊への対策がとれるのではないか。そんな簡単な話ではないかもしれないが、これからの日本に必要なのは「つながり」なのかもしれないと思った。


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