ちゃんと定義しよう

陽子のなかに潜むチャームクォークが発見。最近そういうニュースがあった。このこと自体には何の驚きもない。場の量子論では粒子の対生成・対消滅がいつも起こっているので、ある確率でチャームクォークを叩き出すこともあるだろう。問題は、そのチャームクォークは陽子に何かをぶつけたときにできたのか、それとも元々陽子のなかにあったものが出てきたのかという違いだ。今回のニュースは後者だと主張しているのだが、果たして本当だろうか。

実験で測定されるのは陽子を叩いて出てきたチャームクォーク。それだけだ。その由来を見分ける方法はない。理論を正しく作れば、それは陽子という(量子力学の意味での)「状態」に何かを衝突させたときにチャームクォークが出てくる確率を予言するはずで、あとは実験と合うかどうかを検証するだけの話だ。陽子に内在するチャームクォークというのは、陽子の量子状態を用意したときに、そこにチャームクォークの成分が含まれていることを意味する。ところが、陽子の量子状態をクォークの言葉で書き下すことができた人はいないので、完全に正しい理論というものは(いまのところ)存在しない。

では、今回のニュースはいったい何だろうか。量子色力学(クォークの理論)を完全に解くのは難しいので、摂動法でできる部分だけ計算して、できない部分は陽子の「クォーク分布関数」と称してわからないままにしておき、実験結果を使って決めることにする。問題は、計算できる部分とできない部分を分離するやり方はいくらでもあるということだ。一応業界標準というべきものはあるが、それは誰かが選んだものに他の人が追随したにすぎない。さらに問題なことに、この分離が(摂動法の次数をあげるなど)計算の精度をあげていったときに矛盾なくできるかどうかがわかっていない。だから今回のニュースは、ある近似のもとでとりあえず定義したクォーク分布関数を実験データに合うようにフィットして決めたら、チャームクォークの成分がゼロではなかった、と理解すればよい。この分布関数は陽子に内在するものと解釈したければしてもいいが、定義を変えると変わるものだ。

こういう類の話は他にもある。何年か前のトップクォーク質量測定にはあきれた。前回までに紹介したように、クォーク質量の定義は微妙な話なので注意が必要だ。実験で「測定された」と称するクォークの質量は、一般に使われているいくつかの定義のうちのどれに対応するのか、質問しても誰も答えられない。真相は、実験の解析に使用するシミュレータの中にパラメタとして入っているクォーク質量だったらしい。そのうち「モンテカルロ質量」という新しい定義だと言い出したのでますますあきれた。他の(理論的によりまともな)定義との関係は不明のまま。基礎理論のパラメタではなく、シミュレータのパラメタを決めていたらしい。

あたりまえの話だが、理論で計算したり実験で測定する量は、ちゃんと定義できていないと意味がない。難しいことをやっていると、この基本中の基本が忘れ去られることがあるので注意が必要だ。現実には定義があいまいだということを知りつつ研究を進めないといけないこともある。問題があまりに難しいときには何らかの近似が避けられないからだ。だが、そんな場合であっても限界を明らかにしておくことは常に重要だ。そうでないと何が正しくて何が危ないのかわからなくなってしまう。

やれやれ、今回は多分に専門家向けの心得みたいな話になってしまった。別名を「おやじの小言」という。年をとった証拠だろうか。

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