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絵を教える(評価する)ことの困難さについて

 今年度から美術受験予備校だけでなく、専門学校でデッサンを教え始めました。主にデジタルのイラストレーター全般を目指す学生たちに、基礎的なデッサンを教えています。今まで私は「デッサン」というものを美術受験においてしか真面目に考えてきませんでした。それは、受験の競争に勝つこと(誰よりも評価される作品を作ること)と、美術において体系だって教えられてきた素描の方法論を掛け合わせた技術です。
 そもそもは人間の目と脳みそを使って知覚できる「像」をできる限り客観的にみやすく二次元(モノクロ)に表し直すことがデッサンだと思うのですが、人間はそこに「この上ない楽しみ」を見出すか、受験や美術作品制作のような「目的」を見出すかがなければ、「デッサン」1枚を6時間(長くもあり短くもある)かけて完成させるなんてモチベーションを到底保つことなんてできません。
 私が専門学校で担当しているクラスには、予備校とは違い通っている目的がそれぞれに違う学生が揃っています。もちろん、「イラストレーター」を目指している人が大半ですが、そうではなくただ単にイラストを描くことが好きなだけだったり、描くことは好きではないが漠然とその業界がいいなと思っていたりと、結構バラツキがあります。
「デッサン」とは好きに何かを描くことではなく、誰もがそう見える像を描く術なので、人によっては耐え難い苦痛にもなり得るのです。
 予備校でも、大学(多少の技術指導の経験しかないですが)でも、ある目的の共有がされている集団でしか教えたことのない私にとって、改めて美術を教えることの困難さ、評価することの難しさを感じたので、まとめてみようとおもいます。

デッサンには目的が必要

 自分の描きたいものを好きなように描くのが楽しいから絵が好きという人にとって、デッサンは描きたくもないもの(課題モチーフ)を自然に見えるように描くという一種の修行でしかなく、デッサン力をつけることにたとえどんな意義があろうが、つまらないことでしかありません。
まず、ここに教えることの初めの困難さがあります。
デッサンがなぜどう必要なのか、これを伝えなければならないのですが、彫刻を専門にしている私にとって、専門外の分野でその必要性を説くことは大変難しい。
彫刻においては、作るものの構想、材料の中に形態がどう収まるのかを感覚的に見抜くためにデッサン力は大いに役立つのですが、彼らにはそれは必要ないし、でもやはりそれが私にとってのデッサンなので、それを延長させて語ることしかできません。
 作り手がなにか美術を教えるとき、実感のこもった実践者の知しか伝えることができないという、当たり前なことが、案外邪魔になるということが分かりました。

できる限り素人の目を思いだす

 人の視覚や、造形感覚は物を見る/作るの往還によって変化し続けるため、一度でも何かを作ると、未経験の感覚に戻ることはできません。
脳内で再生可能な記憶以上に、手や目が勝手に覚え込んでしまうのです。
デッサンだけでなく立体も扱う彫刻家は、作れば作るほど普通の感覚ではなくなっていきます。例えば満員電車で人の後ろ頭や首、肩の形を興味深く見続けてしまうなんて、変態でなければなんなのでしょう。
もちろん、性的な欲動ではありません。作ったことのない形を目にした時、その面白さに目を奪われ、触るように見てしまうのです。
そのような目を持ってしまっている以上、言葉もそういう言葉になっていきます。それが彫刻家の言葉の面白さでもあり、分かりにくさでもあるのですが、とっつきづらいのはそうした作る観るの往還を続けているからなのです。
なので、私も何か言葉で伝える時は、できるだけ初心者の目や感覚を思い出すようにしています。それでもたりないのですが。

上から目線と嫉妬心を超え、評価する

 自分ができることが誰しもできると思わないように、と同時に自分より器用にできる人もいるのだということも忘れないように教えないといけないなと感じています。
自分が当たり前にできることができない人はたくさんいて、そういう人は感覚が違うので言葉も届きづらいのです。そうしたときは、自分がやりもしない見方を提案してみます。すると驚くような絵が出てくる場合があるんです。チャンスと思ってものすごく褒めるのですが、やってる側は訳がわからないのでそれを受け止めきれない場合も往々にしてあります。その上で満更でもないという感じになれば、大成功だと言えます。それがデッサンの質を上げる楽しさにつながることがあるからです。
 逆に、何か教えた訳じゃないのに、自分には描けないいいものが絵に出てきている時、これを褒められるかというのは教える側の資質として非常に重要なのではないかと思います。教わっている側が、教えている自分より優れた存在になることに嫉妬してしまう。流石にデッサンにそこまで思い入れはないので、それはあり得ないと思うのですが、本来はそういう嫉妬を覚えるほどに上達してもらうのが教えることの目標なのです。
 これは私が高校の時にお世話になった古典の先生の言葉でした。「教育の基本は、自分みたいになるな」だと。「自分は優れた人間じゃない。こういうふうにしてみろ、どうだすごいだろは、自分みたいになれであって、それでは自分を超える人間を育てることはできない。自分より優れた人間を作ることが教育なのだ」と。
 だから、上手いデッサン以上に、自分で出来ないような驚きのリアリティが現れた瞬間にそれを褒めるということが、絵を評価する大切な一歩だと考えています。

絵を教える=描き方を教える
ではない

 描き方を教えることは、案外簡単です。画材の使い方は本を読めば分かりますし、それに準じて一緒にやってあげれば全て理解できます。
難しいのはモノの見方や、自分の絵を判断する力を養うことであり、そのコツを伝えることです。
むしろ、絵を描くことを教えるのはこの二つにほとんど集約されます。これはしかも、体と頭、フィジカルとメンタルの使い方を教えるということでもあり、自分のコントロールしきれないことを、調整するということなんです。
画面全体をコントロールすることは、自分の目と手と頭と心をコントロールすることにほかならない。
一枚の絵に、初めの一線から完成まで向き合うということは、そういう心身の使い方を養うことそのものなのです。
 これは技術を教えるということのうちなので、それ以上の美術を教えるということはさらに難しい。
これについては1人の美術経験者が包括的に教えることは不可能だと私は考えています。「美術」には、技術以外の要素がたくさん含まれているからです。むしろそっちの方が美術の本体だとすら言えます。これについてはまたいつかまとめるかもしれませんが今回はこの辺で。

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