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「お化け」として生きる

 前の記事(「noteをはじめた理由」)で、渡辺京二のことに少しふれました。

 渡辺京二さんは、現在91歳。ところが、お元気で、今年のはじめにも熊本で講演をなされ、YouTubeにその映像が公開されています。

 講演の内容は「あなたにとって文学とは何か」(忘羊社)という薄い冊子にもなっています。これが手元にあると、すぐに読み返せて重宝です。

 渡辺氏は、講演のはじめの方で、次のように言っています。

 実はね、今は小説を読む暇なんてないの(笑)。もう九十だからねぇ。九十ってのはお化けなんだよ、お化け。すぐ物事を忘れるし、人の名前も出てこんから。今日も中上健次、村田喜代子、町田康というような名前を書き付けてきてるの。ど忘れすると困るから。

 講演の内容は、文学とは何か根底から問い直したもので、渡辺氏の幅広い教養をバックにして、示唆に富んでいます。しかし私にとって最も印象的だったのは、上に引用した一節でした。
 私はまだ22歳の若輩者ですが、実はここでいう「お化け」になりかけているつもりです。
 教養と経験に裏打ちされた渡辺氏の言葉を、そのまま自分のものにしてしまうつもりはありませんが、「すぐ物事を忘れ」「人の名前も出てこん」ようになったのは確かです。去年、医者に「あと数日持てば良い」と言われること3回、その後なぜか生き延びていますが、「お化け」になった気分からは抜けられていません。

 渡辺京二氏は、自分が現代の小説に通じていない「お化け」であることをことわりつつ、そんな自分の昔話にも何らかの価値があるのではないかと謙遜しながらおっしゃっています。
 僭越ながら、私自身の拙い日記も、世間にそう多くはないであろう若い「お化け」の書いたものとして、一種の珍な読み物と思ってもらえれば幸いと思っています。

 ただ、この日記をもって、「遺言」の類にする気はありません。
 「いつまで」ということは念頭になく、ただ、生きて書くことだけが関心の対象です。
 仮に体調が回復し、働きはじめ、歳をとったとしても、同じように「読むこと」と「書くこと」は続くだろうというつもりでいます。
 去年のはじめ、『大岡昇平全集』全24冊を買いましたが、そのときに考えたことも、一生読み続けられる本ということです。
 書くという行為は、文筆業者だけのものではありません。もちろん、それを発表するための媒体には必ず資本が関わり、その下部構造を意識する必要のない「純粋な」文章などあり得ません。プロにはプロの方法と矜恃もあるはずです。
 ただ、同世代の人間を見ると、好きなことや生活の根幹をなしていることを手っ取り早く「職業」と結びつけて考える人が多いように感じます。
 私自身が、就職のことなど考えなくてよい悠長な身分にいるからかもしれませんが、職業選択など、生きる上では大した問題ではないと言いたい気持ちもあります。

 小説家の野上弥生子は、100歳で大往生を遂げるまでの数年間、毎日2ページの原稿を執筆するというルーティンを守り続けたそうです(その成果が大作『森』)。
 私はこのエピソードが好きです。書き続けることは、それだけですでに偉業であるという気がします。
 どうも、野上弥生子だの、渡辺京二だの、とんでもない偉人たちを引き合いに出し、傲岸不遜きわまりない一文となりました。ひたすら恐縮しています。

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