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邯鄲の夢(9/14の日記)

 火曜日。晴れのち曇り。
 右足が痛み、ベッドで伸ばしたまま、起き上がれないこと昨日と同じ。
 たらこおにぎりを作ってもらって食べたのも昨日と同じ。
 夜はカレー。

 在宅訪問の先生来る。足が痛くて起きられないこと訴えたが、特にどうしようとも言ってくれず。枕元に『人間臨終図巻』あったのに目をとめ、「ずいぶん物騒なもの読んでるね」。ぱらぱらめくり、「これ、面白いな。買おうかな」と言う。ちょっとうれしい。

 最近、古典作品を読もうかと思っているが、そのきっかけとなっているのは『山海経』(平凡社ライブラリー)である。これは、紀元前からだんだんと成立したという謎の古書で、実在の地名や動物名に混じって、妖怪がイラストつきで登場すると言う奇書である。魯迅が『朝花夕拾』というエッセイ集で、その思い出を語っていた。
 私はこれを読んで、古典を読むこととは、いま我々が見ている世界とは、全く別の可能世界の存在を知ることだと知ったのである。

 というわけで、今日読んだのも魯迅が言及していた古典。『唐宋伝奇集 上・下』(今村与志雄訳、岩波文庫)。ただし、収録されているのは魯迅編のものと同じではなく、今村の選択によるもの。
 先にフローベールを読む予定だったが、何気なく読みはじめたら夢中になってしまい、上下二冊一息に読んだ。
 その中で、とりわけ印象に残っているのは「邯鄲の夢」と「杜子春」。どちらもあらすじはよく知っていたからということもある。

 「邯鄲の夢(枕中記)」は、夢の中での出世の経緯が、平坦なとんとん拍子ではなく、大きな挫折のある入り組んだ人生になっているところが面白い。しかし、文章にはムダがない。
 「杜子春」は芥川龍之介のものとは全く趣旨が異なる。こちらの方が断然、面白いと僕は思う。人間の生きるこの世の「わからなさ」をしみじみと感じさせてくれる傑作。
 どう違うかは、ここでは語らないので、ぜひ本文を読んで確かめてほしい。
 訳者の今村も言及していたが、武田泰淳に二つを比較した秀逸なエッセイがあった。『唐宋伝奇集』に興味を持ったのも、実は、魯迅よりむしろ武田泰淳の影響が大きい。

 ほかに感心したのは、陳鴻「長恨歌伝」の、詩を見事に補う細密な描写。
 「赤い縄と月下の老人」のあっけらかんとしたハッピーエンドが醸し出す奇妙な味も良い。
 「真珠(狄氏)」は、訳者解説で『ボヴァリー夫人』を思わせると言われている、リアリスティックな人物スケッチ。
 「山の奥の実家」は、異類の女と結婚する、雪女タイプの話だが、オチは、女が実家に帰ったらそこにあった虎の皮に潜り込んで虎になってしまうというもの。女に、異類に戻ることに抵抗する意志があるのか、ないのか、微妙な二重性が捉えられていて、この手のお伽噺の中でもすぐれている。
 レズビアンものの「魚玄機」は森鴎外の短編に翻案されているらしいので、それもあとで読もう。
 「空を飛ぶ俠女」は、超能力をもって、スパイのような仕事をする「俠女」が描かれている。しかし、女スパイキャラにありがちな、冷酷だったり、あるいは、変に強がっているツンデレタイプではない。僕が特に好きだったのはこの作品。

 ときどき手に取って、よく見返したくなるだろう本で、買って良かった。

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