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#書評 小峰ひずみ『平成転向論-SEALDS,鷲田清一,谷川雁』

小峰ひずみ『平成転向論』

第65回群像新人評論賞の優秀作を受賞したこの評論は,出版前から非常に話題だった.

私も同誌の紙面上でも,受賞時の論文を読んだ.そのときの感想は,確かに面白いが,後半の結論部が不明瞭で納得がいかないというものだった.

そこの疑問点は書籍化されたことによって,非常にクリアに,そして,なによりこの【文体】で書かれなければいけなかったということを強く納得させられた.書かれている【内容】も大事だが,なによりも【文体】との一致こそが重要なのだ.

谷川雁は,革命を文体からやり直さなければいけなかった.小峰さんにとっても,この『平成転向論』はこの文体で書かれなければいけなかった.彼にとってこれは評論を超えて,これからの生き方を決める宣言文であり,主体的にそうあろうとする自分自身を【論駁】するものなのだ.

ところで,論駁とはなんだろうか.論駁とは,呼びかけなのだと,私は考える.今までとは異なる主体のあり方を模索しましょう,という呼びかけである.心の中で自分自身の呼びかけるのかもしれないし,声に出して他人に呼びかけるのかもしれない.論駁対象とは異なる主体になろうとする決意が,論駁の根源にはある.既存の主体を論駁することで,異なる主体の可能性が見えてくる.論駁とは,そのような新しい主体を縁どる作業である.

小峰ひずみ『平成転向論』

この本を読んで思い出したのは,宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』だ.あの書籍も,東浩紀という対象への論駁でもあり,批評家になる自分自身への論駁でもあったと言えるだろう.

そして,小峰さんと宇野さんの共通項は,論駁対象への怒りだけでない複雑な感情だろう.少なくとも私にはそう思える.

彼らにとっては,東浩紀やSEALDSといった論駁対象は,完全に客観的に見れるような他者ではない.どこか親しい部分を感じながらも,違和感を覚える不気味な存在だ.だからこそ,彼らはその論駁対象の可能性も感じながら,限界についても考えてしまうのだろう.

【文体】と【内容】の一致.


「勝ちたい」んちゃうんかったか?

小峰ひずみ『平成転向論』

ある程度,年齢を重ねると敗北を受け入れることももちろん大事なことだと思う.敗北をどうやって受け入れるのか.アカデミー賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』の元ネタの『ワーニャ伯父さん』のテーマもそうだった.

なんだか世の中では最近,「負け」をどうやって受け入れ,肯定するのかという話ばかりしているような気がする.それは多分正しいけれど,同時にそれだけじゃつまらないなとも思ってしまう.

だが,この本は「勝ちたい」と思う純粋な気持ちを持つことは決して悪いことではないのだという当たり前だが大切なことを思い出させてくれた.

この人にしか書けない文章というものがある.それを私は本当の批評であると思う.そして,この『平成転向論』は,小峰さんにしか書けない文章だと心から思った.


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