萌えは愛の上位概念(©︎東浩紀)とはなにか-あるいは確定記述と固有名と愛の関係⑤

ゼロ年代の幽霊

進捗としては、ようやく8割といったところだろうか。とはいえ、駆け足ではあるが当初の2つの目的はある程度達成出来たと個人的には思っている。

まとめに入る前に、ここでは副題にもある確定記述と固有名について考えてみる。

ここで新たに呼び出されるのは、批評界のアルテマウェポンこと村上裕一である。

東浩紀が企画していたゼロアカ道場優勝者である彼のデビュー作『ゴーストの条件』は、まさしく東浩紀の『存在論的、郵便的』で、展開されたクリプキ由来の固有名と確定記述論をさらに発展させたものだと言える。(第1部)とはいえ、ゼロアカの熱狂も冷めた時期に刊行されたこの書籍は、そのポテンシャルを十分に汲み尽くされないまま現在に至っている。非常に残念なことである。

そこで、私はこの本を再読することで、東浩紀の言う、固有名と確定記述の概念を最整理し、なおかつ、あまりにも当時のトレンドを扱い過ぎて過去のものとなってしまった『ゴーストの条件』のその可能性の中心をアップデートし、現在に再インストールを試みたい。

早速だが、『ゴーストの条件』はとにかく読みにくい。年齢的には多少村上氏の方が年長であるが、ほぼ同時代のネット文化を知っているわたしであっても、そこで扱われているものの半分ぐらいの固有名詞か分からない、いわんや、今の大学生には、正直ここで挙げられている固有名すらほとんど知らないのではないか。

また、この本は、前半部の議論で、固有名を論じているが、ゼロ年代批評の中でも、とりわけ難解な文章でここでまず挫折する人も多いだろう。あと、ここで語られるインターネット的なものは、より正確に言うと、ニコニコ動画や2ちゃんねるのような日本特有のネットカルチャーのことだと思われるが、ほとんどなんの説明もない。

さらに他にも、蓮實重彦などの日本の批評的文脈などの知識も必要とされるので、言ってしまえばいくつものソフトウェアを切り替えながら読まねばならないとゆうことで非常にハイコンテクストかつ難しい本になっている。

ゼロ年代も終わり、10年代も終わった。だから、この本のハイコンテクストな部分から考えても語られなくなってしまったのも致し方ない。

しかしながら、感傷マゾや青春ヘラといったいわゆるセカイ系の鬼子のようなゼロ年代的なものを再評価する向きも増えてきている中で、私はゼロ年代最大にして最高の奇書(いい意味で)であるこの本を抜きにして語ることはできないと考える。

ただ、後半部のやる夫などの分析の部分は、正直特殊性などを考えても、今の文脈には容易にアップデートすることは難しい。だが、前半の固有名の哲学と題された部分は、今なお普遍性を持っている部分だと思われる。そこでは何が語られていたのか?適宜、私なりの読解を入れながら読んでいこうと思う。

固有名と確定記述

彼は固有名に関する哲学を参照しながら論理を進めていく。ここで、登場するのは、ラッセル、クリプキ、柄谷、ジジェク、デリダ、東である。
それらは、3つのグループに分けられる。

1.ラッセルは、記述理論と呼ばれる。固有名を省略された確定記述であると考え、ある述語を満たす対象を指す言葉だとした。つまり確定記述の1パターンとして、固有名を考えた。

2.クリプキやジジェク、柄谷は、あくまで、固有名の単独性を唱えた。それぞれその理由付けを、名付け、剰余、超越論的シニフィアンとしている。

3.デリダや東浩紀は、2のグループを否定神学つまり、ないがゆえにあるというような方法論として批判した。そうではなく、失敗や訂正可能性によって、固有名の単独性を主張した。

そして、村上個人は、この3のグループの理論を引き継ぎながら、固有名には実は、「強い固有名」と「弱い固有名」のふたつに分類しながら論を進めていく。

ここで、問題なのは、その強い弱いというのがどういうことかがあまり語られないのである。そこで、私なりに解釈してみると、有名な固有名と無名な固有名に相当するとして論を進めよう。

ではその違いはどこからくるのだろうか?

ダイナミズムとメタボリズム

そこで重要なのは、「ダイナミズムとメタボリズム」である。

彼はアイドルを例に挙げて説明をする。

モーニング娘。は、アイドルの育成(ダイナミズム)とメンバーの新陳代謝(メタボリズム)が重要なファクターだったことを村上は指摘する。だが、次第にメンバーの育成というダイナミズムが衰退していく中で、メンバーの加入と脱退が進み全体としてのモーニング娘。の固有名は弱体化していった。

次に、AKB48は、選挙やじゃんけん大会といったメタボリズムによって新たなダイナミズムを促す装置があることで、AKB48というメタゲームの固有名は強化されるというのが、彼の論理である。

もっと私なりに分かりやすい例を挙げるとすれば、ソーシャルゲームのデレマスは、プロデューサーとしてアイドルを育てるというダイナミズムが重要だが、キャラが固定化してしまっては、育てがいがなくなってしまい、ダイナミズムは失われる。

そのために、運営は定期的に、メタボリズムとして新たなキャラクターやイベントを供給する。それにより、ダイナミズムを復活させ、デレマスというメタゲームの固有名は強化されていく。

ここで、メタゲームについての解説をしておかなければいけないだろう。彼は、一人一人のファンとアイドルの育成ゲームと、その外部としてのメタゲーム(モーニング娘。やAKB48)の相互作用を重要な要素だと考えている。個人と運営の相互作用は、彼の言う「インターネット的」な想像力であり、ニコニコ動画や2ちゃんねるをメタゲームだと言ってもよいし、初音ミクもまたそのようなメタゲームの1つなのである。

ただ、ここからは私見だが、いくらメタゲームの運営側が、ダイナミズムを復活させようとも限界がある。何故ならば、メタゲームのさらなるメタゲームが存在するからである。

複数のメタゲーム同士の覇権争い。いつしかダイナミズムを失ったメタゲームは、消え去る運命にある。宇野常寛のいう決断主義的な世界の中では、村上のいうメタゲームさえも例外では無いのである。

メタゲームとしての固有名と小さなゲームとしての確定記述

それでも村上の言うメタゲームという考え方は、非常に有用だと私は考える。何故ならば、ある固有名そのものをメタゲームとして捉えることができるからである。

メタゲームとしての固有名とは、Wikipediaのようなものだと言える。たとえ、真偽の定かでない確定記述が追記されたとしても、メタボリズムによって、それが上書きされていく。固有名は、そのようなメタゲーム性を持っていると考えることが出来るのである。

そして、村上の言う「強い固有名」を、わたしは、「その固有名=メタゲーム内で創発的なコミュニケーションが行われ、さらなる小さなゲーム=確定記述を再生産していくような再帰的な固有名」と再定義しよう。

少々分かりにくい表現で申し訳ないが、もう少しよい言い回しがあったら随時訂正しよう。

というわけで、ここでは、固有名と確定記述について考えた。固有名には、メタゲーム性がある。メタゲームが上手く機能して、確定記述(小さなゲーム)同士の相互作用により、再生産されるような固有名のことを強い固有名と名付けた。

ここは、正直私の中でもなかなか整理が出来てない部分でもあるので、もう少し考えてみたいところではある。

とゆわけで続く。

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