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連載小説|ウロボロスの種

▲ 前回


二日目

 翌日、私はひとしきり町を歩き回ったあと、ブランデー蒸留所を訪ねてみることにした。
 ところで、昨日から町を歩いてみて、わかったことがある。
 この港町は、中心に広場があり、そこから六つの大通りが放射状に広がっている。その形はちょうどЖの文字のようだ。
 海と港がЖの下側にあるとしたら、ブランデー蒸留所はЖの左上のほうにあった。
 川にかかる橋を渡り、林檎園の中の道を歩いていくと、林檎の木々に囲まれて建物があった。中世の城のような建物だ。
 建物の脇では、男が木造の機械を使って林檎潰しをしていた。林檎の香りが漂っていた。
 「ブランデー蒸留所へようこそ。ご見学なら、そこの正面から入るとガイドがいますよ」
 男は林檎潰しをしながらそう言った。どうやらこの町では、ブランデーと言えばアップル・ブランデーを指すようだ。
 建物に入ると、受付に若い男が二人いて、そのうちの一人がガイドをしてくれることになった。
 若いガイドは溌剌と話を聞かせてくれた。ガイドは、今しがた潰された林檎から果汁を搾り取る濾過室、果汁を発酵させる醸造室、それから蒸留室を見せてくれた。蒸留室にそびえ立つ三基の蒸留器は見事だった。
 「これでおしまいではありません」とガイドは言い、熟成室へと案内してくれた。
 熟成室の棚には、おびただしい数の樽が寝かされていた。
 「イソップの金の卵のお話をご存知でしょう。欲張った農夫が、金の卵を産むガチョウの腹を裂いて、すべてを台無しにしてしまう物語です。ガチョウを殺してしまう前、農夫は金の卵を売っていました。しかし、こうすることもできたでしょう。つまり、金の卵を育てて、金の卵を産むガチョウを増やすのです」
 ガイドは話を続けた。
 「林檎は、食べてしまえばそれおしまいです。私たちは、林檎から種を採り、林檎を増やします。それだけでなく、長い工程と年月をかけて、ここで黄金の液体を作るのです」
 「すべては未来のため、というわけですね」と私が言うと、
 「そのとおりです!」とガイドは目を輝かせて言った。
 「その未来は、どこへ行き着くのですか」
 「人々の解放感です。ここで作られた黄金の液体を口にして、人々は解放されるのです」
 蒸留所の出口の近くには、見学者用の小さなバーがあった。
 「そちらで試飲のサービスがお楽しみいただけます。おかけになってお待ちください。私はここで失礼します」
 そう言うとガイドは去っていった。
 私はカウンターに座った。ほかには誰もいなかった。
 しばらくすると、カウンターの向こうのドアが開いた。なんと、現れたのはリリィだった。
 「未来へようこそ」
 いたずらっぽい笑顔でリリィはそう言った。そして、昼間は時々ここにいるのだと教えてくれた。
 リリィは、蒸留したての液体と、熟成された液体とを、それぞれチューリップ・グラスに注いでくれた。
 私はまず、蒸留したての透明な液体を飲んだ。林檎とアルコールが鼻から脳へ突き抜けるようだった。
 リリィは手のひらを私に見せ、それから握りこぶしを作り、言った。
 「これは石。石は紙に包まれてしまう」
 「そうですね」
 「石の中には、何が包まれている?」
 私はしばらく考えて、
 「わかりませんね」と言った。
 リリィは握りこぶしをゆっくりと開いて、言った。
 「紙です」

 酔った頭で広場を通りがかると、道化師が立っていた。昨日から、この道化師が動くのを見ていない。
 私は道化師に近づき、その正面に立った。道化師はぴくりとも動かない。シルクハットを逆さにして、両手の指先で持っている。
 私はポケットに手を入れ、コインを探り、それをシルクハットの中に投げ込んだ。それがコインではなく、渦模様の貝蓋だと気づいたときにはもう遅かった。
 道化師は動きはじめた。道化師は自動人形のようにゆっくりと、全身でおじぎの動作をした。道化師が深々と頭を下げたとき、シルクハットの中が見えたようだった。道化師はそこでぴたりと止まってしまった。
 私は恐ろしくなってその場を離れた。
 そのときから、私は町の中央の広場を通ることができなくなってしまった。
 私は、過去と呼ぶべきものをもつようになったのだ。

 夜になって、私はバー・ニュクスを訪れた。
 リリィがいて、客が一人いた。今度の客は数学者だった。
 数学者は声をかけてきて、こんな話をした。
 「台車を走らせようと、エンジンを作った人がいました。エンジンができて、それを台に乗せて走らせようとしました。ところが、台車は走りません。エンジンは、台車を動かすだけの馬力をもつよう作られていて、エンジンそのものの重さは考慮に入れられていなかったのです。そこで、エンジンを大きくして、馬力を追加しました」
 数学者はスコッチを一口飲んだ。
 「しかしです。エンジンを大きくした分、エンジンは重くなりました。するとその重さの分、さらにエンジンを大きくして、馬力を追加しなければならなくなったのです」
 「きりがないですね」
 「そのとおりです。馬力を追加すると、エンジンは重くなり、さらに馬力を追加しなければいけなくなります。ところが、さらに馬力を追加すると、さらにエンジンは重くなり、またさらに馬力を追加しなければならず……といった具合です」
 私は種を連想した。種は、芽吹く可能性を宿している。その可能性は、種によって実際に駆動されるのを待っている。すると種は、芽吹く可能性を駆動する可能性をも宿しているのでなければならない。そして、その可能性もまた駆動されるのを待っているのだとしたら……
 「種についてはどう考えますか」と私は尋ねた。
 「種ですか。よい質問です。種から出る芽は、時間軸の未来方向からやってきます。幹や枝や葉は、さらに未来方向にあります。このように、種を含めた植物全体は、未来に向かって広がっています。言ってみれば、未来はすでにあるのです。それが次々と順番に現在へやってくるのです」
 私は、種について今しがた浮かんだ考えを話してみた。数学者はしばらく考えてから、こう言った。
 「その話は、計画と実行の話に似ていますね。計画は実行されるのを待っています。ということは、計画を実行する計画がなければいけません。しかし、その計画もまた実行されなければいけませんから、その計画を実行する計画もまたなければいけません。そんなふうにして、無限に続いていきますね」
 「無限に計画がなければいけないとすると、計画を実行するなんていうことが、どうしてできるのでしょうか」
 数学者はふたたび考えて、こう言った。
 「無限に計画が必要だとしても、計画の実行に要する時間は、無限ではありませんね。私が思うに、どこかで収束が起きているのでしょう」
 「収束、ですか」
 「ヴェリアという古代の町があり、こんな話が伝わっています。一本の矢を、弓から的めがけて放つとします。矢が弓から的に届くには、矢は弓から的までの距離の半分を飛ばなければなりません。そして次に、残された距離の半分を飛ばなければなりません。すると今度は、そのまた残りの距離の半分を飛ばなければなりません。すると今度は……と無限に続いていきます。が、矢は無限に飛びつづけるわけではありません」
 「的のところで収束する、というわけですか」
 「そのとおりです。これを逆に考えることもできます。矢が弓から的に届くには、矢は弓から的の半分のところまで飛ばなければなりません。しかし、半分のところまで飛ぶには、矢はそこまでの半分の距離を飛ばなければなりません。けれどもそのためには、矢はそのまたさらに半分の距離を飛ばなければなりません。しかしそのためには……と無限に続いていきます」
 「無限小……」
 「はい。距離は無限に小さくなっていきます」
 「矢はいつまでたっても弓から放たれませんね」
 「はい。少しでも矢が飛んだとするなら、矢はその距離の半分を飛ばなければならなくなりますからね」
 「でも現実には、矢は放たれます」
 「収束……それは矢を放つ弓であり、現在であり、種であるのかもしれません」
 無限小の種。その種は、計画を宿している。
 無限小の種に、どうして計画が宿ることができるのだろうか。


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