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死者と動物の哲学 2

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この間、「弔いとは何か?」について哲学対話をした。

哲学対話をしていると、いつもわからないことばかりが出てくる。ところが、「弔い」について粘り強く考えていると、どうやらそれは最低限、〈死者のために何かをすること〉を含むらしいということがわかってきた。

死者のために葬儀を行う。死者のために墓を作る。死者のために花を捧げる。死者のために生前住んでいた部屋を掃除する。

さて、そもそも、〈死者のために何かをすること〉とは、何をすることなのだろうか。

とりわけ不思議なのは、〈死者のために何かをすること〉が、次の2つのうちのどちらなのかだ。

(1)死者が仮にまだ存在したとしたら喜びそうなことをすること。
(2)死者が現にまだ存在するとしたうえで喜びそうなことをすること。

〈死者のために何かをすること〉が(1)だとしたら、死者は実際にはもうどこにも存在していないことになっている。死者は実際にはもうどこにも存在していないと信じたうえで、仮にまだ存在していたとしたら、その人が喜びそうなことをする。

たとえば、死者のために花を捧げる。死者はもうどこにもいない。けれども、死者が仮にまだいたとしたら、花をあげれば喜んだだろう。だから、花を捧げる。

対して、〈死者のために何かをすること〉が(2)だとしたら、死者は現にまだ存在することになっている。肉体を離れ、まだこの世に存在するかもしれないし、あの世に存在するかもしれない。だから、現にまだ存在するその人が喜びそうなことをする。

たとえば、死者が生前住んでいた部屋を掃除する。死者は肉体を離れてまだどこかにいる。だから、部屋をきれいにすれば、その人はそれを見て、本当に喜んでくれるだろう。だから、部屋を掃除する。

さて、〈死者のために何かをすること〉とは、(1)と(2)のどちらなのだろうか。死者を弔うとき、死者はもういないことになっているのだろうか。それとも、死者はまだいることになっているのだろうか。



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