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ある命の記録

 「全部無駄だったな」
 自分の部屋の本棚の前に立ち、彼はつぶやいた。
 本棚には、物理学の書物が並んでいた。
 そのうちの一冊、英文の学術雑誌を取り出すと、彼はそれをめくった。

 彼は、修士課程までの六年間、物理学を専攻してきた。
 その最後の年、英語で執筆した論文が、国際的な学術雑誌に採用された。
 快挙だと、研究室は賑わった。
 指導教授は、彼が博士課程に進学することを期待していた。

 しかし彼はその道を選ばなかった。いや、正確には、選べなかった。
 経済的な理由から、就職活動をせざるをえなくなったのだ。
 そして今朝、保険会社から、採用を伝える電話があった。
 物理学の本はすべて処分してしまおう、一冊の学術雑誌だけを残して。そう彼は決めた。


 「全部無駄だったな」
 本棚の前に立ち、神はつぶやいた。
 本棚には、神が創ったすべての命の記録が並んでいた。

 神は、最初の生命が生まれ、最後の生命が息絶えるまでの百億年間、あらゆる命を見守ってきたのだった。
 神は、自分が命を創ったことに満足していた。命を見守ることにも満足していた。
 神は、生命が絶えることなく、いつまでも続くことを願っていた。

 しかし神はその道を選ばなかった。いや、正確には、選べなかった。
 生命がいつまでも続くことは、神自身が決めた宇宙の法則に反していたのだ。
 そして今日、最後の生命が息絶えた。
 命の記録はすべてなかったことにしてしまおう。そう神は思った。

 神は、本棚から一冊の本を取り出した。
 物理学を志し、保険会社に就職していった人間の記録。
 「全部無駄だったな」
 その一言が目にとまった。
 神は、その一冊だけを残しておくことに決めた。




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