見出し画像

連載小説|ウロボロスの種

▲ 前回


十一日目

 朝、目が覚めると、全身に奇妙な感覚があった。体中に蛇がまとわりついているような感覚だった。
 するすると這う蛇も多くいたが、動けずにいる蛇もいた。動けずにいる蛇は、右半身に多かった。右脚、腰の右側、背中の右側にいた。頭の右側にもいた。右膝には疼くような感覚があった。蛇の頭がそこで動きを遮られているのだった。
 これらがすべて自由に流れるようにならなければならない、と私は思った。そして、夢に出てくる〈核〉や帯状のものは、現実に存在することを知った。
 起きて活動しているとき、これらの感覚は点として存在するだけで、像を結んでいない。しかし、身体にあるしかたで意識を向けると、それらの点どうしが線で結ばれるのだ。その線は曲線で、帯状のものであり、蛇であった。
 くり返しから解放されたいという私の気持ちは続いていた。ただ、朝は〈木〉を見にいくことにした。〈木〉は日々変化し、どのように伸びていくかが未知で、むしろ私にとって解放の象徴にもなっていた。
 〈木〉はさらに成長していた。人の背丈の五倍ほどにもなり、もはや大木だった。木肌には菩提樹のような襞ができていた。葉をつけない枝々は、ますますうねって伸びていた。
 幹の周りを、三人の女が回りながらダンスしていた。大木の下の彼女たちは小さく見えた。
 私はボヘミアン地区に向かうことにした。くり返したくない私は、広場を通っていこうと思った。浜辺からの道を歩き、花咲く家々の前を通った。広場にさしかかると、レストラン、花屋、ジェラート屋、石鹸屋などがあった。
 広場に入り、私は思わず立ち止まった。人通りの向こうの道化師が、あの日の恰好のまま止まっている。頭を下げ、おじぎの途中のまま固まっている。
 私は恐ろしくなり、引き返した。そして混乱した頭で歩いた。足は広場を迂回し、ボヘミアン地区へ向かっていた。
 大通りが狭まり、独特の賑わいの中に入った。私はデリで朝食を取ることにした。
 テラスのテーブルでパストラミ・サンドウィッチを食べていると、隣のテーブルからこんな会話が聞こえてきた。
 「市街の人間は今日も朝から未来のために頑張っているのかね」
 「そうだろうな」
 「いつまで続けるつもりだろうな。輝く未来なんてやってきやしないよ。どんどん苦しくなるだけだ」
 「目的を未来に置いた時点で、間違いなんだよ」
 「そんなのは生命に反してるからね」
 「自分たちが生き物だってことを忘れちゃ駄目だ。生き物は、今持っている能力を発揮するときに、一番輝く。未来のために必要な能力じゃない。とにかく今持っている能力を存分に発揮するんだ。植物だって動物だってそうしてる。だからあんなに生き生きしているんだ」
 私はパストラミ・サンドウィッチを食欲にまかせて食べた。
 肉は美味い。しかし、牛が生きて動いていたとき、肉は最も美しかったはずだ。持てる能力を存分に発揮していたからだ。その能力を失った肉を、私は今、私の生き物としての能力を発揮して、食べている。
 食事を終えた私は席を立ち、歩きはじめた。
 地区を散歩していると、小さなモスクがあった。私は門をくぐり、建物の中に入ってみることにした。
 モスクの中では、一人の職人がタイル貼りをしていた。様々な色のタイルをモザイクにして、幾何学模様を作っている。
 私は職人に挨拶をし、
 「一人でお仕事ですか」と言った。
 「なあに、ひとりでに進む仕事だよ」と職人は言った。
 「どういうことですか」
 「結晶の核さえあれば、あとはそれをくり返していくだけさ。神が授けてくださった核を、外に広げていくんだよ。どんな模様ができあがるのかは、神のみぞ知るってわけさ」
 私は感心してその作業を眺めていた。
 中心に核となる図形があり、それは外に向かって枝を伸ばしている。その枝から、もとの図形、またはその相似形が現れる。そのようにして模様が広がっていくうちに、中心の図形は全体にとけこみ、いつしか中心ではなくなっていくようだった。
 私はモスクを出て、歩きながら考えていた。
 私は結晶の核。なぜか中心にて、世界を解きほぐそうとしている。世界は私から徐々に広がっていく。にもかかわらず、世界が広がっていくと、私は中心ではなくなっていくのかもしれない。世界がすっかり解きほぐされたとき、私は世界にとけこみ、中心ではなくなるのだろうか。
 港町でいえば、中心の核は広場だ。そこからЖの形に、結晶が広がっている。整然とした「市街」の外れ、Жの右上に、広場からの結晶化を拒むかのようなこの地区がある。そこで私は解きほぐされようとし、世界を解きほぐそうとしている。
 だとすると、港町は、広場からの結晶化によっては解きほぐされないだろう。広場からの結晶化は、未来へのくり返しを生んでいる。この地区はそれを拒んでいる。人の意志、未来への意志による結晶化ではない、「神のみぞ知る」結晶化が必要なのだろう。
 タウゾの父親は、「この石がクリスタルでありますように」と願っただろうか。その願いが叶うとき、私の願いもまた叶う。「港町の結び目がほどけますように」という私の願い。
 港町の結び目がほどけるとき、世界は解きほぐされるだろう。人々は、そして私は、くり返しから解放されるだろう。
 気がつくと、私は公園まで来ていた。焚火のあとの周りでは、作業が続いているようだった。
 そこには、半円形に曲げた針金をいくつも連ねて作った、長く大きなトンネル状の骨組みが横たわっていた。人々は、それに大判の布を何枚もかぶせ、くくりつけようとしていた。布の柄はそれぞれ異なっていた。
 私はザゴラスのいるテントに入っていった。テントの中央には、ハープを演奏する人がいた。
 白いローブの一団の中にリリィがいて、私に気がつき、立ち上がって手を振ってくれた。
 私は白いローブの人たちに混じって座った。みな、思い思いに話をしていた。
 「本日もようこそ」とザゴラスが私に話しかけた。
 そのとき、白いローブの女が三人やってきて座り、別の三人の女が立ち上がり、去っていった。
 「女性の体はミルクと卵と血でできている、あなたはそう言いましたね」と私は言った。
 「混ぜるとピンクカスタードみたいだね」とザゴラスは言った。
 「卵とは何ですか」
 「卵とは混沌のこと。混沌が二つに分かれ、そこが真ん中になる。その二つはさらに、二つずつに分かれる。そうやって、混沌は秩序になっていく」
 「卵と種は違いますか」
 「種も混沌。だけど、卵みたいに二つに分かれて真ん中ができるんじゃない。まずは回るんだ。混沌が回り始めて、真ん中ができる」
 現在というものはどうなのだろう。混沌が過去と未来の二つに分かれて、真ん中に現在ができるのだろうか。それとも、混沌が回転して、現在という真ん中ができるのだろうか。
 テントの中は居心地がよく、またここで長い時間をすごしてしまいそうだ。
 しかしそれでは、同じことのくり返しになってしまう。
 私は立ち上がった。ザゴラスとリリィ、それからほかの人たちに礼を言い、テントを出た。
 私は「市街」に戻ってみたが、行きたいところがあるわけではなかった。久しぶりにフェデリコと話がしたくなり、大聖堂に寄ることにした。
 大聖堂ではフェデリコのパイプオルガンが鳴り響いていた。私は最前列に座り、白い鳩のステンドグラスを眺めていた。
 白い鳩は、後光の交わるところから、高速でこちらへ飛んでくるように見えた。しかし、後光の交わるところで、捕らえられているようにも見えた。
 やがて演奏が終わると、フェデリコは笑顔でこちらへ歩いてきた。私の隣に座ると、
 「どうですか、旅は」と訊いてきた。
 「私は自分で自分をくり返してしまっているような気がしています。それでこの何日かは、ボヘミアン地区へ出かけるようにしています」
 「あの地区ですか」と言い、フェデリコは真剣な表情になった。そしてこう続けた。
 「私は若い頃、あの地区に住んでいました。あなたのように、くり返しから逃れたくなり、この近くから引っ越していったのです」
 「そうだったのですか」
 「けれども、あそこにはあそこのくり返しがあるだけでした」
 「どんなくり返しですか」
 「自然のくり返し、もっと言えば、動植物的なくり返しです。あそこの人々は、未来のためのくり返しに反発しながら、現在のためのくり返しをしています」
 「現在のためのくり返し……ですか」
 「ええ。動植物が呼吸をくり返すようにです。蛇でいえば、とぐろを巻き続けるような動きです。その頭は前進を拒んでいます。だからあの地区では、前進に対する不満もまたくり返されています」
 「たしかに、あの地区に行くと、町のこちら側に対する不満が聞かれますね。白いローブの一団といるとそうでもないですが」
 「白いローブの一団! ザゴラスに会ったのですか」
 「はい。バー・ニュクスのリリィが会わせてくれました」
 「ザゴラスとは友人だったことがあります。彼は現在のためのくり返しをしながら、無秩序を夢想しています。あの〈木〉は彼にとって、無秩序の象徴なのでしょう。昼も夜も、彼の仲間が〈木〉を崇めながら守っているようです」
 「ザゴラスとはもう友人ではないのですか」
 「私は、現在のためのくり返しにも、無秩序を夢想することにも、共鳴しきれませんでした。やはり未来への前進に可能性を感じていたのです。蛇にとって最も生命力に満ちた動きは、とぐろを巻きつづける動きではなく、左右にうねりながら進む動きだと、そう感じたのです」
 「それであの地区から戻ってきたのですか」
 「ええ。それ以来、ザゴラスには会っていません」
 「フェデリコ、あの〈木〉は何だと思いますか」
 「私は、人間の未来を占うものだと思っています。あの〈木〉が、新たなくり返しを生むものにすぎないのか、それとも未来への前進を生むものなのか、それは人間次第だと思っています。すべては人間があの〈木〉をどうするか次第です」
 たしかに、あれほど奇妙なものが現れたというのに、〈木〉を見物する人は日に日に少なくなっている。〈木〉でさえも、くり返しの中に埋没していってしまうのだろうか。
 あるいは、フェデリコが願うように、〈木〉は未来への前進へと人間を導くのだろうか。「市街」の人々は、未来のための計画を立て、それに従った前進を望んでいる。フェデリコの望む前進は、おそらくそうしたものではない。計画として知られた未来ではなく、まったく未知の未来への前進だ。
 計画は人間に役割を負わせる。反復する役割には未来がないとフェデリコは話していた。フェデリコの思う蛇のうねりは、計画のための反復ではない。それは生命のうねり。未知へのうねり。
 私自身はどうだろうか。少なくとも、未知のためにもがき、うねることはしている。それは私の生命を賭けたうねりだ。うねることで、どうにかして、私は私自身をほどかなければならない。
 〈木〉は、私を反復から解放するだろうか。どのように解放するだろうか。
 すべては私次第なのかもしれない。

 夜、フェデリコと私は、バー・ニュクスへ行くことにした。フェデリコはリリィと話したがっていた。
 客は私たちのほかに二人いた。私たちは端の二席に座った。
 「いらっしゃいませ」とリリィは打ち解けた笑顔で言った。
 フェデリコはジュレップを頼み、私はブランデーを頼んだ。
 「ザゴラスは元気ですか」とフェデリコはリリィに話しかけた。
 「ええ。〈木〉が現れてからは、ますます」
 「ザゴラスは〈木〉のことをどう考えていますか」
 「アダーモとエーヴァの蛇のように、混沌と再生を意味するものだと考えています」
 「自ら混沌を引き起こそうとは思っていないのですか」と私はリリィに訊いた。
 「彼にそのつもりはありません。彼は待つだけです。仲間たちとともに」
 「どうして待つだけなのですか」と私はさらに訊いた。
 「人為的な混沌は、真の混沌ではありません。人為的な混沌には、計画が含まれてしまいますから」
 すると今度はフェデリコがリリィに言った。
 「混沌と再生を待つなら、それは未来を待つということでしょう。ザゴラスは昔、未来には何も望まないと言っていましたが」
 「そうでしたか」
 「未来についての考えの相違から、私たちは訣別したのです」
 「そもそもザゴラスは、アダーモとエーヴァの蛇が過去にいたとは考えていません」
 「蛇は今まさにいるというわけですね」
 リリィはフェデリコを見て、ゆっくりと頷いた。
 「ザゴラスは、今ある混沌と再生を信じています。彼にとって待つことは、今あるそれに耳を澄ませることです。彼は〈木〉の声に耳を澄ませているのです」
 「彼には何が聴こえているのですか」と私は訊いた。
 「彼はそれをあまり話しません。〈木〉が現れてから見るようになった夢について、わずかに話してくれますが。それでも、言葉とは相性が悪いようです」
 「あなた自身は、蛇は過去に実在したと思いますか」
 そうフェデリコが訊くと、リリィはこう答えた。
 「蛇が過去に実在したとするなら、それは夢としての過去です」
 その夜の夢で、私はあることに気がついた。帯状のものが滞っている先に、動かないものがある。それは意識されていなかった。意識すると、そこに意志によって力を加えることができるようになる。力を加え続けると、それは動くようになる。すると帯状のものはそこを流れていけるようになる。


▼次回


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?