見出し画像

連載小説|ウロボロスの種

▲ 前回


十日目

 朝が来た。私は身支度をして、朝食をとり、海に向かって歩いた。
 海への道ももう慣れていた。朝の光に包まれ、覚めきっていない頭で歩いていると、奇妙な感覚に襲われた。足は動いているが、前に進んでいないように感じられた。そのかわりに、大地がこちらに向かって動いているように感じられた。足元から膝のあたりにまで意識が下りていた。そのあたりに絶え間なく移り変わる感覚が生じていた。まるで、地球という玉で玉乗りをしているかのような感覚だった。自分が動かぬ中心となったような感じだった。
 私はいつのまにか海に着いていた。〈木〉はさらに大きくなり、三人の女がダンスをしていた。女たちの薄いローブの長い裾が、海風にたなびいていた。ますますうねるようにして伸びた枝の一つに、一羽のカモメがとまっていた。遠巻きに眺める人も何人かいた。
 私は砂の上に座った。太陽が高くなってきて、砂浜に照った。光に滲んだ人間の体は、砂に生えているようだった。なぜか、足元から生えているようには見えなかった。人間の体はどこから生えているのだろうと思い、私は観察した。
 それは膝だった。膝から下に向けて脛が生え、膝から上に向けて腿、腰、胴が生えていた。人間の体は膝から生えていた。

 私は立ちあがり、海をあとにした。歩きながら、くり返してはならない、と思った。大聖堂のそばを通ったが、立ち寄るのはやめておいた。できるだけ、歩いたことのない道を見つけ、入ってみることにした。面白い具合にカーブした小道、塀に花の咲く小道、階段の昇り降りのある小道があった。しかし、真新しいものはなかった。
 唐突に、広場に行き当ったりもした。道化師に見られることを思うと、やはり広場には立ち入ることができなかった。私は引き返して歩いた。
 私の足は自然とボヘミアン地区に向かっていた。ボヘミアン地区は、大通りが静かになり、少し狭まった向こう側にあった。そこを境に、独特の賑わいが始まっているのだった。
 カフェやパン屋などでは、まだ朝食の時間が続いていた。私はそのうちの一つのカフェに入った。
 私はカウンターでコーヒーを注文した。ほどなく出てきたコーヒーを持ち、私は空席を探した。
 歩道に置かれたテーブルは人でいっぱいで、狭い店内のテーブルは空いていた。店の奥のほうを見ると、庭に出られる小さなドアが開いていた。庭にもテーブルがいくつかあるようだった。
 私はドアから庭に出た。三つのテーブルのうち、二つには人が集まっていた。一つは空いていて、私はそこに座ることにした。
 人々の話し声を聞きながら、私はコーヒーを飲んだ。店の雰囲気にふさわしい、土俗的な味がした。
 隣のテーブルから、こんな会話が聞こえてきた。
 「話の種なんてどこにでもあるもんだよ。何だって話の種になる。市街の人間みたいに、未来ばかり見てると、話が広がらないのさ」
 「市街にはよく行くのかい」
 この地区の人々は、地区の外を「市街」と呼ぶらしい。
 「あまり行かないけどな。とにかく、未来ばかり見てると、今が未来のための道具みたいに扱われちまう。今が気に入らないもんだから、それを未来のために使うって発想さ」
 「まったく賛成だ。一体、今の何が気に入らないのかね」
 「話の種ってのは、今を今のために使うから、見つかるんだよ」
 今を今のために使う。今、こうして話し声が聞こえている。鳥のさえずりも聞こえている。話し声を話し声に、鳥のさえずりを鳥のさえずりに、返してみる。するとそれらは種になる。
 鳥のさえずり。それは何かを孕んでいる。それは未来のための何かではない。夢のような何かだ。耳を澄ませていると、私はそこに誘われる。未来のほうにではなく、たぶん、リリィが指して示した上のほうに。
 鳥のさえずりの、高い音と低い音。その間に何かがある。つかまえようとすると、それは逃げてしまう。
 私は、ブランデーを飲みすぎた夜の明け方を思い出した。ナイチンゲールの声が聞こえていた。酔いすぎて後悔の中にあった私に対して、俄かにすべてが肯定された。すべてが美しかった。薄明るい部屋の家具、脱ぎ捨てられた服、開いたままのカーテン、窓枠、窓から見える木の葉の一枚一枚、それから後悔さえも、美しかった。私は起き上がり、窓を開けた。明け方の空気を吸った。木の枝の香り、葉の香り、夜の街の香り、朝の街の香り、夜が白んでいくさま。肯定されることで、何もかもがはっきりとしていた。静かに生命力が湧きあがってくるのを感じた。
 夢のような何かをつかまえようとして、過去を思い出していた。過去は夢だとリリィは言っていた。実際、夢は未来にではなく過去に通じていた。
 コーヒーの茶褐色と、カップのサファイア・ブルー。その間にも何かがある。つかまえようとすると、やはり逃げてしまう。
 今度は私は、湖にいた。茶褐色の木々越しに、青い水面が見えていた。茶褐色と青の間に、何かがある。それをつかまえようとすることは、夢の中で夢をつかまえようとするようなものだった。

 カフェを出て、私は地区を散歩した。歩きながら、私は《蛇》の旋律を思い出した。思い出した瞬間、それは種だった。旋律を孕んだ種だった。
 不思議なものだ。旋律が思い出されるとき、旋律が展開されたかたちで思い出されるわけではない。にもかかわらず、思い出されたことがはっきりとわかる。
 〈東洋の神秘・針治療〉
 そう書かれた看板に出くわし、私は立ちどまった。東洋の神秘……針治療……どんなものだろうか。
 看板を眺めていると、看板のある角を曲がったつきあたりに、公園があることに気付いた。公園では何かが行われているようだった。私は興味をひかれ、公園へ向かった。
 公園では、焚火のあとのまわりに、たくさんの人が集まっていた。太い針金を巻き取った大きな輪が置いてあり、一人がそこから針金を引いて伸ばし、時々切っていた。ほかの人々は、切られた太い針金を組み合わせて、何か大きなものを作ろうとしているようだった。
 私は近くまで行ってみた。焚火のあとを大きく囲んで、長さは十メートルほど、幅は三メートルほどの、巨大な魚の骨のようなものを、人々は作っていた。太い針金どうしを組み合わせて固定するのには、細い針金を使っていた。
 私は例のテントに行った。中に入ると、中央でアコーディオン弾きがタンゴを演奏していた。白いローブの一団は昨日と同じところにいた。カラフルな横縞のワンピースを着たリリィが立ち上がり、手招きをしてくれた。私は白いローブの人々の中に混じって座った。
 「ようこそ」とザゴラスはにこやかに言った。
 そのとき、白いローブの女が三人やってきた。すると別の三人の女が立ちあがり、去っていった。やってきた三人の女は、一団に加わって座った。
 「〈木〉のところへ行くのは、女だけなのですか」と私はザゴラスに訊いた。
 「そうだね」
 「どうして女だけなのですか」
 「女性の体はね、ミルクと卵と血でできてるんだ。混ぜるとピンクカスタードみたいだね。それでいて、空のはるか上を指すことができる。つまり、地上と天上を繋ぐことができるんだ」
 そのうちに、水煙草とお茶が運ばれてきた。お茶が配られて、それを飲んでいると、水煙草が回ってきた。私はパイプをくわえて、蒸気を大きく吸いこんだ。
 意識が遠くなり、手足にじんわりとした感覚が落ちていった。いつもは、首から上、とくに顔に、自分がいるような感じがしている。それが今、手足にも自分がいるように感じられはじめていた。首から下に、私の根が伸びていくようだった。
 「そろそろかもしれない」とリリィが言って、立ち上がった。そして、
 「一緒に来る?」と私に向かって言った。
 私は立ち上がり、ついていくことにした。
 リリィと私はテントを出て、公園の中を歩いた。そして、別のテントのところまでやってきた。それは黄色いテントだった。テントの頂上で、アラベスクの旗がゆれていた。
 私たち二人は中に入った。ラグが敷きつめられていて、たくさんの人が、奥のほうを向いて座っていた。一番奥には、誰も座っていない空間があり、椅子が一つ置いてあった。リリィと私は、人々の間に空いている場所を見つけて座った。
 拍手が起こり、ギターを持った若い男が登場した。男は椅子に座り、演奏を始めた。
 指先で弦を弾く音と、静かな歌が聴こえてきた。そう思うと、演奏者はギターをかき鳴らし始めた。腕の動きが独特だった。
 音楽は緩急をくり返した。いびつながら、はっきりした音楽だった。
 拍手とともにギター弾きが去ると、今度は若い女が出てきた。片手に白い紙を持っていた。
 若い女は椅子の前に立ち、詩の朗読を始めた。

  蛇
  蛇は言葉を話すだろうか
  話しただろうか
  その舌が樹上で示した文字はY
  蛇の神聖文字である
  その舌でなされた発音はL
  すると怒れる鷲に掴まれ
  宙で体を捻る
  世俗文字はそうして生まれた
  執拗にくり返されるT
  たまらず鷲は足を放す
  地上に堕ちて発せられるH
  蛇はそのまま卵を飲み込む

 詩人の次は、画家が現れた。画家はカンヴァスを抱えて出てきた。
 カンヴァスを椅子の背に立てかけると、彼はパステルで線を引き始めた。赤と黄と青のパステルで抽象的な形を描き、時々指で色を広げたり混ぜたりした。
 絵の全体像が見えてくると、画家は観客のほうを向き、こう語った。
 「世界には多くの謎が潜んでいる。絵を描くことは、そうした謎の一つを拾いあげ、それに応えようとするプロセスだ。描き始めると、画面上で一つの謎が解釈される。すると画家は、カンヴァス上の謎に応えねばならなくなる。そうして、さらに色を置く。すると謎が新たになる。絵を描くプロセスは、そのくり返しだ。世界からやってきた謎が、カンヴァスの上で展開してゆくのだ」
 画家のあとには、室内楽の四人組が出てきて、《夢想》という曲を披露した。四つの音がやや弱々しく、か細い印象の演奏だった。それだけに、音楽の構造が透けて見えるように聴こえた。
 私は感激していた。この地区へやってくると、くり返しから逃がれることができる。そんなふうに感じた。

 夜はバーへは行かず、ホテルの部屋で過ごした。
 帰りがけにリリィに勧められて買ったハーブ酒。林檎の蒸留酒に、フェンネル、アニス、ニガヨモギ、バイソングラスなどを漬けて作られた酒だ。
 それはブランデーよりもずっと強い酒だった。私はグラスに氷も入れずそれを注いで飲むと、ベットに倒れ込んで眠った。


▼ 次回


いいなと思ったら応援しよう!