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『ルール?展』感想ーHow many rules we XXXX!

現在、21_21design sightで開催されている空前絶後の大人気展「ルール?展」に行ってきました!

正直、最初は作品や他のお客さんの雰囲気に馴染めなくて、個人的には微妙な展示会かも…と思っていたのですが、全てを書いて振り返ってみると、ここまで感想が書けるんだからいい展示会だったのかも知れない。

『ルール?展』の会場の雰囲気

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めっちゃバズってる展覧会『ルール?展』その現場はいかがなものか。

港区女子予備軍?の群れに呑まれながら参加してきました!(少し怖かった)

本展の紹介は以下の記事に譲ります。

現在、東京六本木の21_21 DESIGN SIGHT では企画展「ルール?展」が開催されています。法律家の水野祐さん、コグニティブデザイナーの菅俊一さん、キュレーターの田中みゆきさんの3 名が展覧会ディレクターチームとなり、法律、規則、習慣、自然法則まで幅広く「ルール」をテーマに、新しいルールの見方・つくり方・使い方などを考える作品が展示されています。
法律家がディレクターを務めるということで、異色の展覧会として開催前から注目されていました。
開催直後から多くの人が来場していたようですが、すぐに若い人たちの人気に火がつき、今では大学生などの来場が普段以上に多いと言います。
法律家の水野祐さんは「デザインやアートの展覧会に普段から来る層にだけ届いても意味がないテーマなので、できるだけ幅広い層に来てもらいたいと思って企画したが、ここまで若い人たちが来るとは予想していなかった」と語ります

引用記事:「ルール?展」に若者が殺到の理由、窮屈さを反映?でも変えるのは…

会場の男女比は2:8くらいの印象。

18歳〜24歳くらいの若者が大多数で、来場者の多数が常にスマホを握りしめて会場を闊歩しているような会場の雰囲気はかなり異質。そしてみんなびっくりするほど、じっくり作品を見てなかったと思います。

映像作品とか、本来なら若い世代には親しみやすそうな気がするんですけど、あんまり真面目に見ないんです。

恐らくその理由はカメラによる「映え切り取り」ができないから。尺が何分もあるような映像作品はどの瞬間を切り取ればいいか判断が難しいんでしょうね。

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会場に張り出された意見書も「撮影に関するルール」が多い印象。

作品を見るための動線も、キュレーターの田中みゆきさんの企図でしょうか、あえて散らされているような印象を受けました。そんな事も手伝って、鑑賞者の作品を渡り歩く姿は「映え」を探してサバンナをうろつくハイエナの群れそのもの!これは批判しているのではなくて、純粋に凄い状態だなと衝撃を受けたんです。僕と十歳も離れていないような子たちの社会って、知らず知らずのうちにこんな感じになっていたのか!と。

こうした会場の状態に関しては、ディレクターの水野拓さんのインタビュー記事を読んでいただければ、会期が長く会場ルールと共に変化し続けた本展の文脈もよくわかるかと思います。

しかし、鑑賞者が作品を撮ることと、撮られた作品がミーム(笑)としてSNSを漂っていくこと、そのメカニズム自体が今後のコンテンポラリーアートのひとつのフレームワークになるのではないでしょうか。

また、この「ルール?展」も定期開催にして毎回新しい世代が引き継ぐみたいなことになったら、その変遷は面白いことになるかもしれないと思いました。

さて、それでは印象に残った展示内容や作品についてレビューしていこうと思います。

今回はやや辛口になりそうです。

作品と法解釈がもたらすアートの可能性ーパンフレット

初っ端からアレですけど、これは…作品ではないかもしれない。

けれども、個人的に一番面白かったのはパンフレットにおける各作品に対する「法的観点からの考察(水野拓)」の数々でした。

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まさか「ルール」がテーマとはいえ、全ての作品に対して法的解釈を加えて提示するとは…笑

ディレクター・法律家の水野拓さんの気概が伝わってくると同時に、「ルール」という大風呂敷の上でさまざまな作家・来場者が参加する本展において、結果的にこの法的解釈という補助線がひとつの貫通した思索になっていたと思います。

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その射程も非常に広く、既成の法律のロジックをアイロニックに投げかける丹波良徳の「自分の所有物を街で購入する(2001年)」に歩調を合わせた民法の模範的解説から、「ルールがつくる文化」においてはアレグザンダーのパタランを都市計画として評価しつつ、その背景に潜む地域ごとの特色を持った「独自条例」はどこまで可能かといった問題を提起し、合法的な壁画の考え方を街のシャッターに適用した「Legal Wall」が刑法や民法(法律)を個人間の許諾と条例でオーバーライド(上書き)する試みであるとした分析的批評に加え、早稲田大学吉村靖研究室の「滝ヶ原チキンビレジ」では現在流行の「人新生(アントロポセン)」を動物の法の可能性として何とかフォローしようという見事なものでした。

こうした法的解釈を読んでいて、昨今のコンテンポラリーアートがポリコレやインクルージブという視点からパフォーマンス化している現状において、作品に対する法的解釈というのは美術批評にも必要な観点ではないかと思いました。

全てを決める「アートワールド」、特に近代美術における論理や価値形態はややもすれば特定の集団とマーケットで循環する「ルール」に回収され、内輪ノリの中で閉塞していく傾向が見受けられるとすれば、法律という一般社会の「ルール」はアートに対するカウンターパートでありカンフル剤であり、架け橋たり得ると思うからです。

勝手に住人にするな!ー「あなたでなければ、誰が?」

入場してからはいくつかの散在的で小規模な作品に触れながら、実質的な大型作品に出くわすのはダニエル・ヴェッチェル他「あなたでなければ、誰が?」という社会調査に参加するインスタレーションです。

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この作品は14名ひと組で15分入れ替え制(ほぼ強制鑑賞)。

平日に予約していったにも関わらず2周(30分)待機して、3周目でようやく入場できました。鑑賞自体がルールに縛られている感満載(恐らく確信犯)の中での一発目という印象で、どんな作品が来るかとワクワクしていました。

通された室内では画面に映された様々な質問に答えていくのですが、その全てに答えると(もしかしたら質問の前だったかも)「これであなたも本展覧会の住人です!」みたいな文言が出てくるんですよね。これは正直テーマパークの子供騙しのようでウザかったです。

住人になるということは社会契約の一種ですし、本展には社会契約の仲間に当たる婚姻について考えた遠藤真衣さんの「アイ・アム・ノット・フェミニスト!2017/2021」がある中で、どうしてこんな乱暴な飛躍ができるのでしょう。

仕切られた閉鎖空間いっぱいに広がるプロジェクションマッピングと、そこで行われる思考実験を儀式(=ルール)のように経験させて「あなたは住人になりました!」って、、、理論的背景がないとしたら、「ルール」に疑問符を投げかける展示を標榜する本展のその誠実さに「?」が残ります。

勝手に住人にするな!と言いたい。

「問題を提起する、提起させる」ことがアートのひとつの条件だとしても、そしてルール自体にそうした性質があるとしても、十分に考えられた上での「住民登録」がされたとは考えずらい展開です。

いや、本当に危ないと思いますよ、安易な発想でやったことなのかも知れませんが。

「人新世」を巡ることばと建築のルールー「滝ヶ原チキンビレジ」「21_21 to “one to one”」

ある意味、考えさせられたのは早稲田大学の研究室が制作した「滝ヶ原チキンビレジ」という作品です。

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 正直言って、こういったプロジェクトは建築関係の問題アプローチとしては恐らくありふれた例なのですが、そんなことより学生がきちんと考えて実践しているのは偉いと思いました。

 一方で、本作がパンフレットや会場の展示でも度々登場していた「人新世」という言葉をどこまで意識していたかはわからないのですが、本作のテーマはその「人新世」と無関係ではいられないと思うと同時に、その辺の理論的接続がどこまで検討されているのかが少し引っ掛かりました。

「人新生(アントロポセン)」という言葉はノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンが人類の経済活動が地球環境に与えた影響があまりに大きいため、地球は不可逆的に新たな年代に突入したことを地質学的に指摘した際に使われた言葉です。

最近は斉藤幸平さんの『人新生の「資本論」』という新書がヒットしてNHK等のメディアでも頻繁に目にするようになった言葉ですね。

そして、鶏肉の量産過程で生まれる鳥たちの生を軽視した環境に着目し、鳥たちの適切な生態と生産の関係を前提とした「滝ヶ原チキンビレジ」は要するに資本とその被生産物である鳥の間におけるフットプリントの話ですよね。

つまり、企業による経済活動が推し進める天然資源の使用量としてのフットプリントと、養鶏場の鳥の一羽ごとの生態的に適切なフットプリントの対立から発生した事件を踏まえて、鳥にとってのフットプリントを重視するひとつの建築的アプローチが本作の立場ということになるはずです。

しかし、鳥にとってのフットプリントに対してアプローチしても、結局は資本のフットプリント(生産活動・使用量)が問題の原因な訳ですから、早稲田の皆さんも重々承知でしょうが、厳しい言い方をすればどこかの山村に理想の鶏小屋を作っただけでは先がありません。

例えばよくあるパターンで先のシナリオを検討すると、優れた住環境によって質のいい鳥が育つようになった結果、高値がついてブランド化する("環境に配慮した"鶏肉は自動的に希少価値を帯びるから)という線があると思いますが、その場合はブランド化されない鳥たちは救われません。つまり大量生産可能かつ鳥に寄り添った厩舎を作るか、人間の鳥の消費量を減らすことが必要です。

しかし、低コストで大量生産可能かつ鳥に寄り添った厩舎(鳥の価値が上がる厩舎)が作れるなら、もう作られているはずだし、鳥の消費量を減らすためには世論や資本をひっくり返すような啓蒙的な厩舎が必要です。

要するに問題の本質は資本主義にどう対抗し、動物や鳥のフットプリントを優位に立たせるかというところに収斂するはずですから、それこそ如何に資本のルールを掻い潜って鳥のフットプリントを獲得するか、もしくはどのように資本を打倒するかがポイントになってきます。言い換えればモノづくりを通して資本主義の中でどうサヴァイヴするか、もしくは思想を通して世界を変えるか、どちらかのアイデアがないといけませんよね。

日本には坂茂さんというプリツカー賞を受賞した建築家の方がいらっしゃいます。彼は世界中のどこでも入手が容易な紙管や再生紙を建築材料とすることで大幅なコストダウンや現地調達性を高め、災害時の素早い仮設住宅の建築法を確立したり、避難所でのプライバシーを確保することに成功したことで今も世界中から支持を集めている建築家です。

つまり彼は、資本のルールの隙をついて(産業として周縁化し廉価になった紙を利用して)ここでいうところの鳥のフットプリントを獲得したタイプの人間ということになります。

ところで、本展の会場である21_21design sightもプリツカー賞を受賞した安藤忠雄さんの設計であり、会場自体が「21_21 to “one to one”」として展示されているわけですが、安藤忠雄さんとフットプリントの関係はどうでしょうか。

これは個人的な意見になりますが、安藤忠雄さんも環境についてはいろいろ取り組んでいらっしゃいます。しかし、実際作っているものを見てみて、どうです…?コンクリートとガラスの箱に金属製の屋根が平気で乗っていたりしますよね。

実質的な彼のデビュー作「住吉の長屋」は木造住宅をコンクリ打ちっぱなしにして、都市空間の中に隔絶されたプライバシー空間を作り、その中庭を箱庭化して自然を取り入れたことが評価されていますが、例えばそれは「新人世」の環境論には適応できているでしょうか。

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私が彼の建築哲学、とりわけその自然環境への配慮面に欺瞞を感じるのは「住吉の長屋」は冷暖房設備を一切つけていなくて、だからこそ私の出発点は環境や自然との共存なんだ!(それはそれでストイックで素晴らしいとは思う)という主張を未だにしているところです。今どき冷房なしのコンクリ住居なんてどう考えても人が生きられる環境ではないし、事実として21_21design sightも港区のど真ん中にある冷暖房完備のコンクリ建築なわけです。

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(↑「ルール?展」会場 21_21DESIGN SIGHT)

そして「滝ヶ原チキンビレジ」の説明文は鶏肉大量生産のための“バタリーケージ“における鳥の生を「個を捨象し数で捉える近代主義が跋扈しているのです。」として近代主義と結びつけて批判していますが、安藤忠雄建築の中で近代主義批判をすること自体が“バタリーケージ状態“に陥ってはいないだろうか、と私は考えます。批判の範囲も出どころも、ちょっとマシなバタリーケージで甘んじてるような感じがあるんですよね。

そもそも「近代主義」ということば自体が非常に曖昧で、近代にも様々な主義主張が存在している中で十把一絡げに「近代主義」という言葉で片付けてしまうのは、作者自身(早稲田大学吉村靖考研究会)が考える「近代主義」が普遍的な概念だと信じて疑わないことを裏付けていますよね。

ところが、そうしたことばの放ち方は、それ自体があなたが批判している近代主義の「ルーラー(統治者)」とその「ルール」にあなたのことばや思想が収監され、“バタリーケージ“に陥っている何よりの証左になっていると思います。当然のように「近代主義」という言葉を使うこと自体が、資本主義や経済中心主義こそが当然の「近代」であると認めることになりますからね。極論ですがタリバンの人だったらそんな西欧の手垢がついた「近代主義」なんて言葉は絶対に使わないでしょう。

「人新世」ということば自体も、誰がどのように使っていくのかを入念に見極めていかないと、「近代主義」のスローガンに陥る可能性があります。抵抗する気があるなら、資本のルールに回収されないようにしなければいけない。つまりルーラーに飼い慣らされた批判にならないようにしなければいけないでしょう。

ルール可視化の意義①ー「鬼ごっこのルール」等

本展ではルールをわかりやすく可視化する展示物がいくつか存在しています。

大まかに行って「ルールのつくられ方(法令の場合)」「鬼ごっこのルール」「支払いのルール」の3点です。

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「ルールのつくられ方(法令の場合)」は公民の教科書を一歩踏み込んでわかりやすく提示した作品で、展覧会の入り口付近に展示されています。ルールを扱う本展の導入という意味でこの展示の意義は理解できるのですが、「鬼ごっこのルール」「支払いのルール」の展示意義は私にはわかりませんでした。

だからなに??で終わり。

官公が作ったパワーポイントをデザイナーが綺麗に見やすくしたらこうなるんだろうなあ、ぐらいの感想?ちょっと私にはわからなかった。

ルール可視化の意義②ー「四角が行く」「ルールが見えない四角が行く」

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(↑石川将也+monome+中路景暁「四角が行く」)
その一方で、「四角が行く」「ルールが見えない四角が行く」はユニークで面白かったと思える作品です。

掲載したGIF画像は以下の作者の石川さんのインタビュー記事からの引用。

要するにルールというアルゴリズムに対応する四角形がどのように動くのか、動かすことができるのかという実験ですよね。

「四角が行く」はピタゴラスイッチ的なノリでかわいいアルゴリズムの可視化なんですが、「ルールが見えない四角が行く」が登場することでかなり批評性が高まって、その跳躍が面白かったです。

「ルールが見えない四角が行く」では、前作では実体として見えていた枠組み(ルール)が消えてしまい、四角も少しオロオロしながら見えない枠組みに適応しようとする姿が描かれます。

一方で、それを客観的に映し出すiPadにはルール(枠組み)が見えているという作品。

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このiPadというメタ視点によって、私たちは四角形を見えないルールに適合しようとする人間、ありもしないルールに警戒する人間の姿として見ることができるのです。わかりやすく言ってしまえば空気を読もうとして七転八倒している姿ですよね。だからこそ四角が何かと格闘する様子はルールに疑問符を呈し、その実体を探ろうとする本展のコンセプトにもピタリと当てはまります。

また、「ルールが見えない四角が行く」は後半に展示されており、それまでルールへの創造的コミットを推奨されたり「あなたでなければ、誰が?」で戸惑いながら質問に答えようとした私たち参加者の姿そのものでもあると言え、ああ、自分もこういう感じだったんだねwと妙に腑に落ちました。

四角とアルゴリズムという、人とルールの関係を抽象化させた関係性もうまく掬い取っている作品だなと思いました。

ルールの創造的運用ー「ひとりの髪を9人の美容師が切る(2度目の試み)」

私はパンフレットの次にこの作品が好きでしたね!

写真は撮影禁止でしたが、これも「ルールが見えない四角が行く」と同じく展示の後半に登場する作品。

ヘアカットを秩序の共同制作と見立て、タイトル通り1人の髪を9人の美容師が切るという面白い映像作品です。

9人がある秩序だった何かを創造しようとするとき、つまり本作においてあるヘアスタイルを構想するとき、何が起きるのか。

ヘアカットとは、一度切ったらやり直せないという意味では一回性の緊張感があると同時に、切り終わった後は少しずつ伸びていき、またカットを迎える…つまり社会とルールの関係をよく表現しているモチーフだと言えるでしょう。
(だからこそ2度目の試みなのかもしれない)

かなり色々考えさせてくれる作品でしたが、そろそろ眠たいので今日はこの辺で締めにかかります。

総論ーHow many rules we XXXX!!

いろいろ言いたい放題させていただきましたが、こうして振り返ってみれば「ルール」という概念を空気のように見えないものとして、見えているはずのものとして、いつの間にか生成されるものとして、私たちが共有する法として、私たち一人一人が所有するマイルールとして、そして私たちが創るものとして、さまざまな視点から炙り出そうという企図に、結果的に楽しませてもらったのかも知れません。

それにしても「映え」狙いだったらもっとそれっぽいアート展があると思うけど、「映え」の中でも「問題意識を持ってる私映え」みたいな派生系があるんですかね?

本展に興味をお持ちの方、何気にもう少しで終わってしまうので行くなら早い方がいいですよ!

スマホは忘れずに。

「ルール?展」2021.7.2.-11.28.(要予約)


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