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セゾン現代美術館『都市は自然』展とエコツーリズム

 先日、軽井沢に二泊三日で旅行に行った。

 食べて飲んで寝て散歩をして、日中、余った時間には美術館に行った。

 美術に関しては普段触れることもあまりない未開拓領域。特に現代美術などは全くの守備範囲外だと思っていたのだが、もっとも時間が潰せそうという理由で訪れたセゾン現代美術館で意外な体験をした。めっちゃ面白かったのだ。

 現在、セゾン現代美術館では『都市は自然』という建築家の團紀彦によるエキシビジョンが開催されている。

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 元々は生物学の分野で使用されていた「共生」という用語は、環境問題や人権問題の標語にも用いられるようになり、今では一般的な言葉として使われるようになりました。この「共生」という言葉が広くに知られるようになったのは、1970年代より「共生の思想」を提唱してきた建築家・黒川紀章によるところが大きいといえるでしょう。黒川と共に日本発の建築運動「メタボリズム」に参加した建築家・槇文彦に薫陶を受け、現在国内外のプロジェクトで活躍する建築家・團紀彦が、本展の展示構成を手掛けています。
 2020年より軽井沢町の今後の都市と自然環境に対する提言を行うマスターアーキテクトに就任された團の建築は、その特徴として「自然との共生」を挙げることができるでしょう。本展では、團の「共生」に関連した作品や画像資料に加え、複数のプロジェクトで團と共同制作をしてきた美術家・大久保英治の新作インスタレーションを展示いたします。さらに「共生的社会」と題したセクションでは、当館館長の堤たか雄がキュレーションを担当し、ブックアーティストの太田泰友、独自の視点で社会問題に向き合う磯村暖の近作をご紹介いたします。美術作品、関連資料他、様々な展示物を通じ、日本の自然観、都市観に基づいた團紀彦の解釈による「共生」の展観を試みます。

 第1部は日本を代表するランド・アーティストなる大久保英治氏による個展のような空間が広がり、土の匂いと屹立した美意識が漂っている。そこではエキシビジョンのテーマである「共生」を大久保氏が”古臭い理想”として清々しく一蹴したパネルと共に、彼が足を運んで創作した軽井沢の自然に関する作品展示が行われていた。

 彼の作品には自然というありのままの姿を時間・空間的に有機的に切り取ると共に、それらを幾何学としても表現するという、ほとんど運動の形をとった意匠が息づいているように感じた。また、見方によっては確かに「共生」に関する批判的な深い投げかけを行う作品もあり、観る者には素直な感性と高いリテラシーの両方が要求されたように思う。

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↑「日常の歩行(2019)」という題の作品群。おそらくこれは日記のようなもので、大久保氏が歩いた場所の地形や自然などの環境を端的にアートとして記したものだと思われる。歩く中で収集したと思われる人工物や自然物も使用されている。

 第2部からは團氏による展示で、第1部で大久保氏が辛辣に投げかけた「共生」に対する批判にディフェンスを仕掛けるような強力な意思を感じた。そこにこの二人の関係を見るようで、その点も面白かった。笑

 團氏が考える共生とは、恐らくイメージとしては弁証法的なものだが、彼曰くAとBを分離するのではなく(A・B)、またAかBどちらか一方にもう片方を同化させる(A➕B=AAorBB)訳でもなく、調停という概念によって相乗効果を持つシナジーを生む(A➕B=3)ことができるというものであった。
(ちなみにこの論理式ならぬ記号式は團氏のものだが、記憶が曖昧なので正確ではない)

 その例として、異なる文化背景により乱立する小地区を円状の広場でつなぐことで街にすることが出来た都市(トルコのどこかだったか)とキリスト教による都市計画の一環で大きな広場によって複数の地区が繋がれた都市(イタリアのどこだったか)の地図を挙げ、都市計画における広場を用いた場合の調停事例を説いていた。

 第2部の展示では彼なりの共生思想を表現した建築物のデッサンと(これはよくわからなかった)、その思想をとにかくわかってもらいたかったのだろうか、「ごった煮になったマズそうな料理」と「美味しそうなブイヤベース」の写真を並べたりして共生の失敗例と成功例も説いていた。抽象度を下げ簡略化することで論理的に突っ込みどころが増えてしまうリスクも踏まえた上で、それでも観る者に理解してもらおうという、もはやアートでも何でもない必死さがどことなく可笑しかった。

 今回の展示では第3部が最も面白く、そこでは広い部屋に20点弱の絵画が一見無作為に並べられていた。

 正確な言葉は忘れたものの「作為」と「無作為」という趣旨の二項対立がテーマだとパネルに書いてあったが、言うまでもなくここではその対立の「調停」が肝になってくるはずである。

 その視点で読み解けば、室内に展示された無数の絵画が確かに対立と調停というテーマの元で響きあいながら繋がってくるし、それらの小さな弁証法的クラスターも観念→意識→意味→物体という抽象的なグラデーションの中で変遷を辿るように配置されており、これは構成の妙だと思った。(以下に展示の一部を掲載)

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サム・フランシス「無題」1980とワシリー・カンディンスキー「分割-統一」1934

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荒川修作『意味の記憶の構築』1963と堂本尚郎『連続の溶解』1964 

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ジャスパー・ジョーンズ『M』1962

もちろん、そのようなテーマの元で各作品を鑑賞するということは、團氏が恣意的にこれらの作品群を利用した可能性に加担することを否定できない。しかし、團氏のテーマが一つのヒントとなり、それぞれの作品と向かい合うきっかけを得ることが出来たように思う。また、これだけ作者も時代もバラバラの作品の配置を通して語ろうとするアプローチも斬新ではあった。

 今まではぱっと見の印象で好悪を論ずるまでだった自分の美術鑑賞だが、今回はより作品に接近した視点から作者は何故これを描いたのか、何故この描き方なのか、印象の中から仮説を立てては棄却する、この繰り返しにより楽しみ方が格段に広がった。絵を見つめて考えるー非言語による寡黙なコミュニケーションそれ自体が有意義な体験を与えてくれることに気づかされたのだ。理解しようとする必要はない。

 第4部に関しては、第3部で観念から意識・物質までアウフヘーベン出来たのだから、いよいよ実社会・現代社会をどう表現するかという段階だと期待したが、ここの展示は個人的にはイマイチだったように思う。

 ちょっと毒が強すぎてついていけなかった部分もあるし、何がどう調停されているのかわからないカオスな状況だった。早々に部屋を立ち去った。

 総合的に今回の展示は團氏の構成は面白かったものの、結局は第1部の大久保氏の展示が一番心に刺さった。

 特に彼の地図の作品には都市化する軽井沢、そして我々観光客が見落としている自然の豊かさの両方に気づかされた。この1つのジオグラフィックアートは鳥瞰図でありながら、虫眼鏡なのだと思う。大きな地図の中に織り込まれた小さな地図は縮尺が異っており、そこには尽く開発が進んだ軽井沢の施設ー数々の横文字が目立つ。時間が足りなかったので、機会があればもう一度じっくり鑑賞してみたい。

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 さて、今回泊まった宿は軽井沢の広大な敷地の中にコテージが点在するようなリゾート施設で、自然と触れ合うためのプログラムも充実していた。いわゆるエコツーリズムというやつである。

 しかし、谷の集落というコンセプトの為に造成された池や川のせせらぎは心地いいものの、どこか薄っぺらく感じた。自然環境という面でも、確かに多くの昆虫や動物とも共生出来ているようではあったが、人工的なユートピア感を禁じ得ない印象もつきまとった。ロビーの書架にJ・Kウォールデンの『森の生活』を見つけたとき、どこか鼻白む思いがしてしまったのだ。

 そのリゾート施設は團氏のような有名建築家たちが自然との共生をテーマに設計したに違いないが、これが都市と自然が調停された「都市は自然」というやつなのだろうか。どちらかというと、自然な都市といった感じがしてしまったが。

しかし、正直、そこでの滞在には満足している自分がいる。

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