#48薬剤師の南 第7話-15 ヒーローの南(小説)

 マイクを左手に持った薫は空いている右手を大きく使いながら、この手のショーに定番の注意事項をゆっくりと喋り続ける。私も小さいころによく見た、舞台上の演者の動作、それを今、私の妹が再現しているのは不思議な感覚だった。

 説明を終えた薫は会場の子供と一斉に、

「ライトセブンズ―!」

 と叫ぶ。すると上手側の袖から飛び出てきたのは、悪役の怪人。薫の背後を襲う形となった。
 何人かの子供が驚きの悲鳴をあげる。私ですら予想だにしていなかった方角からの登場に、声に出さずとも少しだけ動揺していた。

 薫は腕を大きく広げて驚きの表情。いかにも演技といった感じのわかりやすい挙動だ。薫が下手側に逃げると、そちらにも怪人が顔を出し、上手へと再び駆けだす。

 本気で襲うならば挟み撃ちにされ大ピンチという状況だが、やはりこれはショーの一環。最初の怪人は「あいつらは来ない!」などという台詞を発しながら客席へと続く階段を降りたことで上手の袖が空き、薫はそこからハケた。

 だが、会場の視線が二人の怪人に集まる最中、薫が舞台下への小さな階段を降りる、その最後の一段で、怪我を負っていた右足が――それを踏み外した。

 がくんと薫の体が下がり、機材を見張るスタッフの視線がその方向へ向く。

 私は息を飲んだ。

 階段は舞台の設営ではよく見る金属板の小ぶりなタイプ。人間一人の体重が一気に加わればショーの進行を妨げる騒音が出てしまう。
 それにマイクはスイッチを切ったのか? 入れたままではスピーカーから大音量のノイズが流れてしまう――

 しかし薫は前のめりの四つん這いで床に倒れ、その音は怪人の口上とBGMによってかき消される。マイクから拾った音はない。電源は切ってあったのだ。

 薫は何をしたのか。この時、瞬時には理解できなかったが、後で思い返すと、踏み外した右足の脹脛《ふくらはぎ》やアキレス腱の辺りを階段に押し付けて咄嗟に前方へ体を倒す軸として使い、さらに左足で踏ん張りをきかせて無理やり前に飛び込む――このような芸当をやってのけたのだ。
 運がよかった――いや、決してそれだけではない。これまで薫が体のあちこちを痛めながら積み重ねてきた努力――それが自分自身を救ったのだ。

(よかった。でも、また怪我が増えたんじゃ……?)

 立てるのか、進行は続けられるのかと不安は尽きなかったが、薫はすぐに立ち上がって舞台下の所定の位置と思われる場所まで歩き、そこで真っすぐな姿勢でぴたりと止まった。

 そこから先はよく覚えていない。さっきの転倒で肝を冷やすどころか、全身の臓器という臓器が締め付けられるような感覚を味わった私の注意は散漫になり、薫がまた声を出しているとか、いつの間にかヒーローが出てきて戦い始めたとか、

「頑張れー!」
 というお約束の掛け声すらも、まるで上の空だった。

 そして、

「今日は来てくれてありがとうございました! この後はライトセブンズ達との撮影会です――」

 そんな薫の声と会場の万雷の拍手が耳に入ってきたことで、

「終わった……?」

 そんなことにようやく気付いたのだった。

 夕方、しばらく私達はモールの中のフードコートで薫が出てくるのを待っていた。三人によればショーが終わったときの私は魂が抜けていた、目が死んでいたなどと、散々な言われようだった。あんなハプニングを見せられてしまったのだから、そりゃそうなるよ。

 しばらくして薫からラインが来た。「店の荷物の搬入口から出る」だそうだ。一応、芸能人の出待ちということになるのか、小癪な奴め。でも今日は成功を喜ぼう、おもいっきり誉めよう――そう思った。

 私達は搬入口に向かった。トラックの行き来の邪魔にならないように、入口の端に立つ。 
 間もなくして薫が歩いてきた。私達の姿をとらえると、力強くピースサインを突き出して笑った。
 雲一つない夏の夕日よりも眩しい笑顔だった。

「――お疲れ様!」

※この小説はフィクションです。実在する人物、団体等とは一切関係ありません。また、作中の医療行為等は個人によって適用が異なります。

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