#58薬剤師の南 第9話-8 隠れ家(小説)

 震える親指を使って電話のボタンを押し、糸数さんと電話越しに再び対峙する。

「はい、薬剤部の糸数です」

 さっきと全く同じ応答に緊張が高まる。下手をすれば私もドクターのお世話になってしまいそうなくらい胃が締まるのを感じた。

 知念さんの症状を再度説明し、そこに自分が調べたことを付け加える。

「――レバーの大量の飲食をしたことによるビタミンAの過剰摂取と、約一週間前にシロアリの防除作業をしたことで、カルバメート系の物質のフェノブカルブを吸入してしまった恐れがあります。頭痛や手のしびれはこの二つが原因の可能性があります」

「カルバメート系のフェノブカルブ、ですか」

「その場合はアトロピン――厳密には硫酸アトロピンになるかと思いますが、治療にはその静注が必要です。病院で再度診察をしてもらえないでしょうか?」

 回りくどいほど説明は尽くした。これならば、通用するだろうか――

「わかりました。医師に確認します」

 長い保留音の後に、

「ドクターが再診察をしますので、患者さんを病院に向かわせて下さい」

 という返事で電話は切れた。

 ――やった。

 私は一息をついた。だがすぐさま、これで終わりではないことに気づく。患者さんファースト――知念さんをこれ以上ここで待たせてはいけない。

 すぐに知念さんを病院に誘導する。

「病院でちゃんと診てもらったほうがいいってことですか?」

「はい、検査をしたり、お薬が変更になることがあるかもしれません。病院の先生に頭痛のこと、レバーをたくさん食べていること、あとはシロアリ防除をしたときのお話をしてください」

「了解です」

「シロアリの作業を一緒にされた義理のお父様の体調は大丈夫そうですか?」

「たぶんオッケーです。ゴーグルとごっついマスクをしてたんで」

「あとはぜひ知念さんの奥様にも、レバーやビタミンAの摂りすぎに注意してもらうようにお伝え下さい」

「はい、食べすぎは危ないってことですよね」

 私が抱いていた残りの懸念は、知念さんの義父と奥さんだ。

 まず義理のお父さんは、今までの会話ではどんな格好で防除作業をしていたのかがわからなかった。だから知念さんと同じく防除剤を吸入してしまった可能性が高いのではないかと踏んでいた。

 そして奥さん。レバーを食べすぎた切っ掛けは、奥さんがビタミンAの風説を鵜呑みにして知念さんにもそれを勧めたことだ。だから奥さんにも同等のフォローが必要だ。それに婚約しているならば――妊娠をしているかもしれないのだ。それゆえ、奥さんがビタミンAを摂りすぎているかもしれないという状況は看過していいものではない。
 だがその奥さんは患者として病院やこの薬局に来ているわけではない――私からは、この程度の注意をうながすことが限界だろう。

「なんか結構時間かかっちゃいましたけど、薬局でここまでちゃんと見てもらえるとは思ってなかったです――ありがとうございました」

「あ、いえ、とんでもないです。お待たせして申し訳ありません」

 未熟ゆえにずいぶんと知念さんに迷惑をかけてしまったが、その感謝の言葉が深く私の身に染み入った。

「それにしても和也君、野球に興味があったんだ」
 川満さんが横から話しかけた。

「仕事の上司で、父親が昔プロまで行ったって人がいるんですけど、その人に誘われたんです。その人も今まで野球はやってなかったって言うんですけど、やっぱセンスが違いますね。練習するとすぐうまくなっちゃったんで、こっちも対抗したくてバット振ってたんですよ。瑞慶覧って人なんですけど」

 ――瑞慶覧?

「僕も今まで知りませんでした。そんな人がプロ野球選手にいたなんて」

 知念さんが薬局から去ると川満さんが、

「瑞慶覧って、お隣のドラッグコーラルの新人さんも、確か瑞慶覧さんよね?」

「そうですが……」

 ――恵ちゃんの、家族? ……まさかね。

※この小説はフィクションです。実在する人物、団体等とは一切関係ありません。また、作中の医療行為等は個人によって適用が異なります。

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