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白アネモネ

 二人は散歩へ出かけた。天神の街で彼らが選んだのは喫茶店ではなく、自分らと同じ住宅街にある小さな公園。車の侵入を防止するための柵を超えると砂でできた地面と、錆の目立つ黄色いブランコと滑り台、腐食したベンチ、そして白いモルタルで囲まれた砂場がある。ベンチに座るのはデニムとカーキ色のシャツを着た、三十に近い女。その女は砂場にいる自分の子供を静かに見守っていた。
 明美は子供に歩み寄って挨拶をした。子供は応じたので、明美は尋ねた。
「何歳になったのかな」
「三歳」
「偉いわ、しっかりしているのね、真帆ちゃん」と、子供の持つバケツに黒い文字で書いてあった名前を付け足した。母親は明美と幸樹とへ、優しく目礼した。
 それから二人は公園の砂場の縁に並んで、真帆の遊びに付き合っていた。真帆はスコップと悪戯心で掬い上げた砂を幸樹の背中に流し込んだ。彼は大仰に笑い、それを面白がった明美も同じようにして幸樹を困らせた。大方昼下がりにその子が公園に現れることを知った二人はたまに時間のあるとき思い出してはその遊戯に混じった。
 幼児は飽きれば、離れて一人で砂山を作り出すのでそれを二人で口を開かず見ているようなことがあった。傍らにいる母親は、彼らの夢に想像を行き渡らせ、赤くなった夕陽に気づいて別れを告げて子と去った。この二輪の白いアネモネが赤く滲んでゆく様を背にして。

 駅から五分ほどのアパートで暮らすうちに、幸樹の明かりと翳りとを紐解いた明美は、頃合いを感じてそろそろ「大きなお世話」という言葉に出会うことがないと薄々感じはじめた。だから朝寝をしている幸樹の電話が喧しく騒ぎ出し、山口というその相手から伝言を受け取ろうとしたのだ。しかしながら任意の動機を記すに一筋縄ではいかぬのが人というもので、電話にその手を導かれる彼女の首筋にはキュリオシティのコロンがほんのり着いていた。
「幸くん?」という呼びかけを彼女は聞いた。
 明美はヤマグチという(明美は果たしてこれが彼女の本名かどうかを怪しがった)この女の喋り方から自分の幸樹への喋り方との類似点を見出し、幸樹のいない方へと視線を移し、虚ろにアパートのベランダの向こうで蠢く車どもを見た。声を出さずにヤマグチの話を聞きながら、自分の信じる男が彼女を裏切っていない証拠を探していた。
 こうした努力を重ねた後に彼女は、目覚めた幸樹に抱きついて涙の理由を誤魔化した。幸樹は隠したつもりの翳りが見透かされているとは知らず尋ねた。
「泣いているのかい」
「バイトで嫌なことを言われたのがとても悔しいのよ」
 幸樹は面倒に巻き込まれることを疎んでいた。気軽な逢瀬の叶う山口ならこんなことはなかったろうにと思った。
 二人はすれ違う。この関係を幸樹は、渡り鳥が目的地に辿り着くまでの道のりのようだと思った。余裕を失った明美は、ただただ暗いだけで窓のない部屋に閉じこもった光景を浮かべるだけであった。

 天神駅の隣のビルにあるロフトで働く彼女は、そこでの仕事に熱中したところで、熱が覚める帰り道にて暗鬱に襲われる。まるでよくある悲劇の歌のように。こうした自制を揺るがす悲嘆の中にあっても、彼女は涙を流さなかった。一人で歩く暗い夜道で泣くことの切なさが、離別の決心を形に起こすことを知っていたためである。
 明美は幸樹の恨みを買ってやりたいという気持ちを得た。その晩彼女は定められた通りに家へは帰らなかった。その代わり、警固公園の椅子に腰掛けてiPhoneの液晶を見ていた。表示される男の顔を横へスライドして気にいるものを探している。先ほどフォロワーのいないTwitterのアカウントにスカートから覗ける太ももの画像を座りながら撮影したものをアップロードしたところで、その仕掛けにかかる男も待っていた。
 その日の中に警固公園に約束の男が現れた。彼は黒縁の大きな眼鏡をかけて、背広に袖を通していた。そして、明美のちゃちな偽名を口にした。
 彼女は立ち上がってから頷き、男に名前を尋ねた。
 明美が忽ち男の手を握った。彼女は自分の手が湿って震えていることを知っていた。天神のざわめきの中で、明美は欲望のままに、枷にまみれた体裁から肉体を解放することを夢想していた。彼女はそれをまるで籠から貴い鳥を空へはばたかせるようだ、と考えた。
 しかしながら、夢想している状態のときわれわれは、われわれがたどり着くべきと思う場所に存在しない。それが夢想というものだからである。多くの雨水が森にとどまってしまい川として世界を駆け抜けることができぬように、われわれのほとんどは夢想を夢想のままで逢着に甘んじる。彼女がこの夢想を現実に引き起こすためにはまだ一つ決定的なものが必要だった。
 重ねて、欲望は籠の中に閉じ込められているのではない。欲望は絶えずわれわれを外から監視しているし、魂の隙間を見つけては引き裂こうとしている。
 男は提案を告げた。
 一夜が明けると消え去り、明美は幸樹の寝る家へと帰った。
 幸樹は帰った明美を迎え、少し怪訝な顔をしたが、それは明美の癪に障るだけであった。
 幸樹は休日を楽しもうと朝寝に入った。それを確認した明美は眠い目を擦り、部屋に思いをはせた。枕元に置かれた木目調の写真立て、白いちゃぶ台とその横に設置された深紅の革製ソファ、揃いの組になった陶器製のマグカップ、ざらついたポリエステル製のインディゴブルーのカーテンのどれも、明美が太陽にそれをかざせば幸樹を投影してしまう。
 身支度を整えた明美は定刻通り家を出ようとしたとき、ハイヒールを履くのに手間取っては激しく苛立ち、玄関を渾身の動きで踏みつけた。

 時計の長針が幾度も回った後、客から渡された590円を落とした音で癇癪を為し、汗で化粧を崩しながら履いていた靴を脱いで、財布とiPhoneとを持って階段を降りた。素足が階段を踏む軽々しい響音を聞いて困惑する人々を目にすると、それはいよいよ歯止めの効かぬ調子になった。間隔正しく植林された杉を敢えて無作為に伐採するような快感はとめどがなく迸った。
 裸足のままで乗り込んだ西鉄天神大牟田線の中で彼女はシートで上半身を振り向かせ、離れゆく天神の街並みを見た。通りがかったあの公園には真帆とその母親がいた。彼らは一切明美に気づかなかった。抱いた期待を裏切られた明美は元通りに座りなおし、車内の世界に戻った。
 ベビーカーの中で真帆と同じくらいの子供が彼女を凝視していた。あやすつもりで彼女は微笑しながら手を振った。そうして明美は残酷に身を染めれぬ自分に気づくと、結局泣いてしまった。

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