アクションシーン

 小説の中でアクションシーンを描写しようとしても、どうしてもちゃちになりがちです。それは、思うに「アベンジャーズ」や「ジョンウィック」などのようにとんでもない商業的成功をとげ、人口に膾炙する映画があるからだと思います。実際これらの映画において私達が目にするアクションシーンはカメラワークの緻密な計算や、スタントマンなどによる洗練された体の動きなどには目を見張るものがあります。

 小説は、人の動き単体という言葉よりも高次元の存在を超越したものを、その動き単体を言葉で描写しようとするわけですが、超越するためにはそれだけではだめなんです。それは、言葉というものが自然の事物に対して後発的に発生したことからも明らかです。所詮は言葉なので、動き単体を描いているのでは無理です。

 では、小説の映画に対する勝利とは何であるのか。私の書き方からもうわかった方はいらっしゃるでしょうが、心理描写や幻覚でしかないと思います。これは同時に、映画のような人の視覚に訴える媒体の欠点を明らかにします。映画では小説に比べ遥かに疾走感が重要視されます。いわば短距離走のようなもので、そうなれば小説は長距離走です。どちらも走るに変わりないのですが、見る側の人間が何を求めるのかが全く異なるのです。テレビに張り付いて『おお、これは一秒たりとも見逃せない』、家事仕事をしながら合間にみて、『ああ、今はこの辺だな』とあたりをつけていきます。

 なので、私の小説にはそういった描写が多用されているわけです。

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