香山のイントロダクション「404 Not Found」(02)

 正気に返ったが、今まで何をしていたのか、直近の記憶がなかった。
 最後の記憶は、作者との対談であった。そうかきっと彼が私の記憶を消したのだろう。ドアから出て……気がつくと私は自宅にいたのだ。こんな芸当が人に扱えるはずがなかった。私は、あの対談を終えた後、この世界に自分が囚われている、ただのマリオネットであることを明確に認識せざるを得なかった。この世界を作った神なんぞいるわけがないと考えて私は今までの人生を過ごしており、この仕事を選んだのも私の自由権を根拠とした選択であると考えていた。しかし、その悲しい妄想は、あの対談で簡単に粉砕されてしまった。私は、何の自由もない、神の意志で動かされるお人形だったのだ。すべては、彼の頭の中で考えられ、彼の気まぐれによって書き換えられる世界に私は生きているのだ。その事実は、とんでもない絶望をもって私を打ちひしがらしめた。そして、対談でわざとらしく振舞った強気な態度を顧みては、あれが私が今感じている苦痛の諸悪の一つだと思った。

 それからというもの何の意欲も湧かぬ日々が続いて、私はパソコンで仕事のメールをチェックすることもやめてしまった。
 私の家には、ベランダがある(ああ、この設定ですら彼の思うままに作られている。神の存在を知った私はもう、自身の意思というものを全く否定しているのだ! そしてこの否定すらも、私の意思ではない!)。そこに設置された室外機の上に黒いガラス製の灰皿を置いて、私はよく煙草を吸った。一本吸い終わり、私はサッシを開けて部屋の中に戻ろうとした。冬の冷たい風を受けて、スウェット程度では耐えられるはずはなかったが、私はまだ煙草を吸いたくなって、もう一本吸うことにした。徐々に手指がかじかみ、痛みを訴え始めていた。何も音楽をきかずに一人、私は冬のベランダにいる。
 もう一本吸った。銘柄はピース、キングサイズで、タール量は六ミリ。自分の経験からしても、短時間に吸って吐き気を催さないのは、四本が関の山である。しかし、結局私はこの日、十二本の煙草を吸ってから部屋に戻り、案の定吐き気に襲われて寝床で一時間ほど過ごした。何本チェーンしようが、私の選択権は生来奪われ、永遠に取り返すことのできぬ事実を変えられるかどうかとは、全く別の次元で動く話であるために、鬱屈とした気持ちは消えることはなかった。

 世界の真理など、単純明快であった。万物は作者の思うつぼなのだ。私が活力を感じないのは、すべて彼が私にそうさせた方が都合がよいと考えているからなのだ。私は、やけくそになりながら布団にもぐった。すると、私は、何かこの真理を変貌させる手段があるのではないかと模索をするようになった。しかし、どうしても浮かばなかった。私は、彼に手出しができぬのだ。……しかし、本当に私のあらゆる行為は無意味なのか?
 私は、ほのかな光を見出していた。私は、彼の住む場所を知っていた。そこで対談が催されたからだ。彼は学生であった。となれば、彼にとって住居の移動はそう簡単に下せる決定ではない。第一、先日訪れた彼の部屋は散らかっており、引っ越しの気配などかいくれ無かった。彼はまだ、あの糸島のマンションを出ていないはずだ。そして、芽生えた自分の考えがだんだんと言葉になっていった。『この世界の神を殺せば、自由を手に入れられるのではないか?』
 神を殺せば、私の自由は実現されるのか? 私は、彼の創作ノートから生まれ、彼にとって都合がいいように動かされていることは、対談で知らされることになった真理だ。しかし、その作者が死ねば、彼の意思が消え、私はこれからその意思なしで生きていくことになるのだ。それを起点として、個人の認識のみがこの世界の真理として君臨するものになる。鎖を引きちぎった、野生の動物がそこに生まれるのだ。
 言語化された観念が私に活力を与えたことはいうまでもない。私はすぐに彼の行動パターンを調べて、明に仕事の打ち合わせをする旨伝える電話をした。
 しかし、この企みには一つ根本的な欠点を抱えていた。それは、この世界の終結である。この物語を書く人間である柴田隼人が死ねば、他に誰が筆を執るのだろうか? 彼が死んだ途端、この世界が消え失せる可能性はある。自由どころの騒ぎではないのだ。しかし、このまま真理の緊縛を耐えるぐらいなら、いっそ死んだ方が賢明なように思われた私は、取りやめる気がおきなかった。

 私は明を呼び出し、中洲川端のビルの前で待った。約束した時間の通りに明が現れ、周囲を警戒した私は一旦彼を無視して中州大通りを国体通りへ向かって進んだ。ちらと後ろを見れば、私の意図を察した彼はついてきていた。信号待ちになって人が増えだし、やっと私は口を開いたのだ。
「今回は、殺害だ」
「誰を」
 明は目を合わさずに質問した。私は答えた。
「柴田隼人」
 それを聞いた明は、一瞬噴き出したかと思うと、へそで茶を沸かした。
「お前、注射のしすぎで気でも狂ったかい」
「いいや、断じてそうではない。熟考の末だからね」
「しかし、俺達は最近彼と会ったばかりだ。彼を殺すことはリスクでしかないと思うがね」
 彼は作者と会ったことをなんとも思っていないようだった。私は、むきになって説明をしようとして、やめた。理屈の分からぬものに説こうとして説明しても時間の無駄でしかないと感じ、彼を別の面から説得するために動き出した。
「明、ボーナスはしっかりと払う。二倍でどうだろう」
 彼は、私の提案を聞いて少し黙り、長く考えてから答えた。
「三倍ならしよう」
 私は世界を捻じ曲げる方法へ一歩迫ったことを確信し、高揚した。神よ、柴田よ、見ているか? 私は、お前の命を奪うために動きはじめたのだ。お前を殺して、私は完全な自由を実現するのだ。しかし、完全なる自由に代償はないのであろうか?
 作者の殺害の中に死兆星を見つけたのはそのときだった。私はここにきて、また作者の死から演繹される自分の死の予感を強めていた。そして、ちょうど戦争に行く前の兵士が、子孫を残そうと精を強めるのに自分を重ねた。ばかばかしいおまじないのようなものであると自覚しながらも、私はその結論を明に伝えた。
「女でも買いに行かないかね」
「どうした、お前がそんなことを言うとは」
 彼がネガティブな反応を示したことは、返す返すも無念であった。
「別に……ただ俺は今、妙に色にきちがいなんだ……行くか?」
「くだらない、一人で行ってこい」
 明は私を置いて南新地を抜け、キャナルシティへと歩いて行った。

 明が柴田隼人を殺した、と報告をしてきたとき、私は思わずベランダから外を見た。世界は、昨日と同じようにそこに存在していた! あんな予感はたわ言だったことを確信した。私は生きたのだ。
 ベランダに出ると、私は風が揺らす木々の音を聞きながら喫煙を楽しんだ。その後に待ち受ける逃走劇など知らなかったからこそ、私はそれだけ自由を喜べたのだろう。

「さよなら」
 そう言って、初めて自分から私を去る決断を言い渡した女は、その決断を、敢えて対面を避けて文字だけでそれを成し遂げてみせた。彼女と交際を始めてすぐのころ、彼女は暴漢に襲われて激しい人間不信に陥った。当然人間不信というのは、自分の肉体への干渉を受け入れるはずの男性から乱暴されたことにより育まれた憎しみに似たような行動なので、その牙は同じく男性である私にも向けられた。
「今は話したくない、男の人が怖いの」
 たったこれだけの文字データが私の心を残酷に抉り取った。自分の何が彼女にそう言わせしめたのか、いやその前に一体自分に非はあるのか、思い悩んで私は、彼女に狂言ばかり吐きつけるようになった。振り返れば、彼女へ、この心のくぼみにはさまった本心をありのまま見せつけることが適切でないように思われたからだったのだろう。こうして愛を打ち明けて交際を始め、それでも正直な傷を私から隠さんとするその行動が表しているものは、彼女の抱く私への不信だった。自問の末に見出されたその解答は悔恨の情を私にひとまず植え付けた。自分がどんと構えることのできぬ男だった。そしてそんな男と付き合わせてしまった。もっと、何事にも動じることのない石の姿勢が必要だと感じた。
 すると数日彼女からの連絡が途絶え、一週間後に彼女が別離を提案してきた。
「何で」
「何で、って?」
「俺がいけなかったんだろう、信頼してもらえるように頑張るから」
 まあ、こういったものはよくある話だろうし、この問答を開始した時点で、人に語るこの別れ話の顛末が容易に予想がついた。
「もう私の答えは決まったんだよ。彼氏なのに、苦痛の中で叫ぶ私を前に口をつくのは、絵空事な冗談ばかり。正直傷ついたし、そうね、さすがに怒ったよ。私はずっときりなしに一人ぼっち。寂しかった。女が孤独の酩酊にまみれて歩く夜道の暗黒を知ってる? 私はもうあなたに頼る気なんてさらさらないわ」
 先述の認識もあったし、活力を失ってそこで会話をする気にもなれなかった。ここまではっきりと拒絶の意を示されて、でれでも一人の女に縋りつこうとする自分の体裁を恥じたのではない。恥という他人の存在を強く意識するような感情ではない。これはあくまで自分が主格となって生じた内発的な結論である。
 しかしそれでも私は彼女をぞっとするほど頭の隅に置いたままだった。自分の置かれた状況、ただひたすらに離れたがりそれを引き留めない、一緒にいようと懇願する姿を隠匿したまま強がりを振舞う私、この構造を俯瞰して見つけても、それは私に漠然なる不安を与えるばかりだった。
 私が先ほど「ひとまず」と記したのも関係している。自問は痛感を帯びて拷問へと変貌した。彼女が私を信頼しなかったのが、自分はそもそも信頼の置けぬ男だったからなのではないかという、自分が答えるはずのできぬ問題である。その解決の不可能性の原因は、解答を握るのが自分ではなく、彼女である点にあった。ただでさえ自分のことについて知ろうとしても、知ることができぬのである。それは、歴史上の哲学者が証明済みだ。そのことを認識しなかった当時の私は、とにかく自分の頼りなさを追い求めては自責を繰り返したのだった。幾度自分を責め立てても、自分はずっと、自分に向かって、彼女に向かって、ごめん、ごめん、と泣きわめくばかりだった。

「大学の卒業証書は運転免許のようなものだよ」
 という姉の言葉が気になった私は、ひとまず大学の文学部へ進むことにした。気は進まなかった。どうせ人生は楽ではない。自分が経験したことのないような苦難があることは何となく予想がつく。それが、人口の半分近くが通過するライフステージを潜り抜けた程度で軽減されることはあり得ないのだ。そうやって反抗しつつも、切符という言葉の軽々しさが妙にしっくりきた。なのでとにかく自分の低い学力に見合うところを必死になって見つけて、そこを受験した。福岡にある私立大学だった。
「東大とか、有名大学以外のことを企業はほとんど知らないからね」
 とも、彼女は付け足した。そういった有名大学の求めるレベルは非常に高く、私の手の届くところではないので、都合がいい。
 何を言われようと穿った見方をする嫌いがあったので、教鞭をとる人間の鼓舞がそれも空虚ゆえのうさん臭さを感じていた。それでも姉のそういった発言にはどこにも抵抗なく受け止めることができたあたり、姉の言うことがもっともらしく聞こえたり、姉への信頼を持っていたのだとうかがえる。幸いにも同調する私を後押しするだけの経済支援を申し出た両親を背に、とにかく大学へ進んで、様子を見てやろうと思った。

 大学へ入るとすぐにバイトを始めた。親父が送った仕送りで何の苦労もなく生活が望めたので、時給にこだわらず面白そうなバイトばかりを選んだ。飲食店は当然やったし、危ない職にも手を出した。色々な危険も体験することになったが、若いからにはそれも重要な経験であるとして、親心は無視することにしていた。自分の目論見通り、転々とした勤務先で得れるものはたくさんあったから、後悔はしていない。

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