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伊藤叡王は何故絶対王者を倒すことができたのか

第9期叡王戦は、挑戦者の伊藤匠七段が、八冠を有する藤井聡太叡王を3勝2敗で降し、自身初となるタイトル奪取を果たして幕を閉じました。これは2020年6月にタイトル戦に初めて登場して以来22シリーズ連続で制覇し、不敗神話を築いてきた藤井竜王名人にとって初めての番勝負敗退でした。

伊藤新叡王は、昨年秋から竜王戦・棋王戦と立て続けにタイトル挑戦し、絶対王者を倒す有力候補の1人に急成長を遂げました。しかし、竜王戦は4連敗、棋王戦も3連敗(1持将棋)と1勝も挙げられず、奪取はまだしばらく先という見方が強かったように思います。何故伊藤新叡王が絶対王者を倒すことができたのか、技術的な面はプロ棋士や元奨励会員のYouTuberの方々に解説していただくとして、観る将の視点からも推察してみたいと思います。


竜王戦七番勝負

タイトル戦で初めて両者が対決した第一局は、藤井竜王の快勝といって良い内容でした。しかし、伊藤七段は感想戦で藤井竜王を上回る読み筋を披露しました。これまで数多くのタイトル戦の感想戦を盤側で見つめてきた勝又七段によれば、「感想戦で相手の示す手に驚く藤井を見るのは初めて」だったそうです。竜王戦七番勝負はスコアこそ一方的でしたが、藤井竜王が伊藤七段を強敵と認識したシリーズだったように思います。

棋王戦第一局(持将棋)

ご存じの通り、棋王戦第一局は持将棋となりました。後手番の伊藤七段が引き分けに持ち込んだ持将棋定跡は、昨年度の升田幸三賞にも選ばれています。恐らく藤井棋王もこの将棋は研究していて、先手が優勢という判断をしていたのではないかと推測しています。伊藤七段は更に深く研究し、AIの形勢判断とプロ棋戦のルールの違い(*)に着目し、引き分けに持ち込めると知っていた訳です。藤井棋王は対局後に「伊藤七段の手のひらの上というような将棋になってしまった」と話していますが、自分が最も得意とする角換わりで自身の認識を覆された衝撃は小さくなかったのではないでしょうか。

(*)持将棋は、相入玉となってどちらも相手の玉を詰ます見込みがなくなった場合に成立します。プロ棋戦では大駒5点・小駒1点で数えた点数が、両者24~30点であれば引き分けとなります。AIは27点より1点でも多ければ勝ちと判断するので、28~30点になりそうな場合、AIは優勢と判断するようですが実際には引き分けとなる訳です。

棋王戦第四局

先手の伊藤七段が角換わりに誘導したのに対し、これまでどんな強敵にも相手の用意した作戦に飛び込む横綱相撲で圧倒してきた藤井棋王が回避しました。どんなに負けても真っ向勝負を挑み続ける伊藤七段に対し、先に立ち合いの変化を見せたのは藤井棋王だったのです。第一局で伊藤七段が示した研究の深さに対し、藤井棋王が最大限の警戒心を持って臨んだように思います。棋王戦もスコア的には藤井棋王が圧勝しましたが、伊藤七段の力の接近を誰よりも感じていたのは藤井棋王自身だったのかもしれません。

叡王戦第二局、第三局

叡王戦第二局で伊藤七段に公式戦で初めて敗れた藤井叡王は、第三局も優勢と思われた将棋を落として、20回を超えるタイトル戦で初めて先にカド番に追い込まれました。自ら「要因ははっきりとは分かりませんが、少し読みの精度が下がりミスにつながっている」と語っていますが、素人目にも本来なら踏み込むべきところで守りに回ってしまう印象があり、自分の読みに対して疑心暗鬼になってしまったのかもしれません。部分的にせよ、初めて感想戦で自分を上回る読みを示した伊藤七段に、追い詰められていったというのは考えすぎでしょうか。

名人戦第四局、第五局、叡王戦第四局

叡王戦と並行して豊島九段との名人戦を戦っていた藤井名人は、名人戦第四局でも得意とする終盤のねじり合いに敗れ、なかなか本来の切れ味が戻ってこない印象がありました。しかし第五局に勝って名人防衛を果たした藤井名人は、叡王戦第四局も会心の将棋で勝ちフルセットに持ち込みました。プロ入り以降、順風満帆に勝ち星を積み重ねてきた藤井竜王名人にも、不調と言われる時期がなかったわけではありません。しかし公式戦でいまだに3連敗したことがないという、驚異的な回復力で危機を乗り越えてきました。私はこの時点で、叡王戦も結局は藤井叡王が防衛するものと思い、歴史的な戦いとなる叡王戦第五局を迎えました。

叡王戦第五局

この将棋は藤井叡王が積極的に動き、銀のタダ捨てから飛車も捨てて攻め込みました。藤井叡王らしい踏み込みに、防衛の文字が浮かんだのは私だけではないはずです。しかし伊藤七段は藤井叡王が評した「柔らかい受け」で決め手を与えません。藤井叡王の心の中に再び疑心暗鬼が蘇り、必要以上に形勢を悲観してしまったとしても無理はありません。

藤井叡王は恐らく正確に対応されたら負けになることを知りながら、桂打ちの勝負手を放ちます。これまで何人のトップ棋士たちが、藤井叡王の勝負手を前に大逆転されてきたでしょうか。ABEMAで解説をしていた増田(康)八段は、自分なら自玉に迫るこの桂を取って逆転されていたと話していましたが、伊藤七段は自玉を守るのではなく、相手に金を渡す危険を承知で先手玉を追い詰め下駄を預けます。藤井叡王は相手が一手間違えれば頓死という王手を続けましたが、1分将棋となっていた伊藤七段は正確に応じて逃げ切りました。

藤井叡王の勝負手に惑わされず、自分の読みを信じて踏み込んだ伊藤七段に、将棋の神様は微笑みました。私はこの日の伊藤七段に、タイトル戦にデビューした当時の藤井七段が、渡辺棋聖の16連続王手に正確に応じて勝利した姿を重ねていました。

今後への期待

伊藤叡王が絶対王者の八冠の一角を崩したのは、決して運が良かったという類のものではなく、その実力を藤井竜王名人自身が肌で感じ取ったからこその結果だったと思います。藤井竜王名人が渡辺九段や豊島九段、羽生九段らとタイトル戦を戦う中でメキメキと強くなっていったのと同様、伊藤叡王も藤井竜王名人とタイトル戦を重ねる中で棋力を向上させたのは間違いありません。相手の作戦に堂々と応じ、斬り合いの中で勝機を見出す勝ち方は、まさに藤井竜王名人の勝ち方とそっくりではありませんか。

ただ、伊藤叡王が藤井竜王名人と肩を並べたと言うのは、まだ時期尚早という気がします。8つもあるタイトルの内、1つを取っただけというのが客観的な評価だと思います。今後、藤井竜王名人が更に強くなって彼の言う「面白い将棋」を魅せてくれるのは間違いなく、伊藤叡王もようやく背中が見えてきた絶対王者を追い続けていくでしょう。私はこの2人が鎬を削って紡ぎ出すであろう数多くの名局が、今から楽しみでなりません。

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