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はじめに|磯田道史、近藤誠一、伊藤謙ほか『世界を動かした日本の銀』

2022年2月19日に開催された、国際日本文化研究センター共同研究会「世界遺産”石見銀山遺跡とその文化的景観”――歴史文化資源の探究と活用」での講演を書籍化した『世界を動かした日本の銀』が発売となりました。石見銀山の盛衰から見えてくる、現代社会の問題を解決するヒントとは――。

はじめに――今の日本の課題がここにある

 本書は、石見銀山「を」書いた本ではありません。石見銀山「で」、今を生きるわれわれにとって大事なヒントを得られるようにした本です。

 ですから、テーマが島根県の石見銀山だからといって、けっして、小さな話をするものではありません。むしろ、石見銀山を入口にすると、日本の歴史だけでなく、世界の経済の成り立ちの秘密などが塩梅よく浮かび上がってくるので、話の切り口を、石見銀山にしたのです。石見銀山は言ってみれば、日本経済の歩みの縮図です。ここに着目すると、今の日本の課題も見えてきます。戦国史から見てもおもしろく、毛利元就、豊臣秀吉、徳川家康といった武将たちのお金や懐具合の裏を覗けます。私は、『武士の家計簿』(新潮新書)という本を書いたこともあり、日本経済の歴史も勉強してきました。

 日本はG7のメンバーですが、どうして先進7カ国の一角を占めることができたのでしょうか。最近は、経済史の研究が進んで、奈良時代の日本のGDP(国内総生産)が推計でき、しかも、同じ時代の世界中の国々と比較できるようになってきました。奈良時代の日本は、世界のなかでもっとも貧しい国だったようです。ところが、20世紀末から21世紀初頭には経済大国になったのです。

 その最初のきっかけは、どうやら貨幣や貴金属にあるようです。日本は火山が多く、温泉もありますが、同時に、嫌な地震もあります。地下で鉱物が熱せられやすい島国ですから、金や銀が生じます。われわれホモサピエンスが「価値あり」と見なす物質、つまり貴金属が地球のなかでもふんだんにある場所となりました。

 これが、日本列島に住む人々の経済的な運命を変えました。いや、日本だけでなく、世界中の経済に影響を与えたのです。なかでも、石見銀山の影響は大きなものでした。ですから、日本や世界経済の成り立ちを考えるには、この石見銀山を話題にして語っていけば、非常によくわかるのです。本書を手に取られたみなさんは、どうして日本がこのような国になったのかを、学校の教科書では教わらないリアルな数字から知ることになるでしょう。

 言うまでもなく、石見銀山は今では「世界遺産」です。世界経済を動かした鉱山ですから、世界遺産の登録は当然です。しかし、この銀山はエジプトのピラミッドのように、巨大さから誰でも価値がわかる、わかりやすい遺産ではありません。鉱山ですから、まったく説明がなければ、人によっては「山に穿たれたただの穴」と言われかねません。世界遺産になるには、その価値を世界に説明する必要がありました。

 本書では、まさに、その交渉にあたった当時のユネスコ大使・近藤誠一さん(元文化庁長官)が、「世界遺産登録の舞台裏」を明かしています。世界遺産は「全人類共通の遺産」の「顕著な普遍的価値」を理解し、守っていく制度です。この石見銀山の全人類共通の価値とは何かを近藤さんは訴えました。この銀山が世界の銀生産の3分の1を占めるようになったのも、全人類にとって大事ですが、それだけでは世界遺産になるには弱いのです。

 世界遺産の登録に事実上の落選をしたこともあります。石見銀山のすばらしさとして、近藤さんたちが訴えたのは、この銀山が「環境保全」をしながら、運営されていた事実でした。日本列島は森や木の文化です。石見では、植林がなされながら、灰吹法(詳しくは本文でご説明します)で銀が精錬されていました。現在も、当時の木造建築の銀山集落が遺されています。環境への配慮の仕組みがあって、持続可能な形で維持されてきたのです。この点が主張され、国際機関で評価されて世界遺産に登録されていった経緯が語られます。

 本書で近藤さんは、人類がなぜ環境を破壊し続けるのか、いっぽうで人類は破壊からなぜ環境を守れるのか、大切でとても本質的な議論を展開しています。結局のところ、人類は欲望のコントロールは可能なのか、という話になり、人間の脳のニューロンの発達や性質にまで話題がおよび、石見銀山を素材に、人類の性質とは何かが語られています。

 また、長年、石見銀山を地元で研究してきた仲野義文さんは、この銀山の経営や採掘技術の実態について詳細に論じています。銀山には謎がありますし、戦国大名が争奪を繰り広げてもいます。銀が海外へ、どのように輸出されたのかも明らかにされます。ポルトガル人がこの銀山に来ていて、ベルギーのアントワープで1595年に作られた地図にも石見のそばに「銀鉱山」と記されているそうで、銀山のグローバルな姿が示されています。

 本書は、国際日本文化研究センターで行われた「本草学」の共同研究会の活動がもとになっています。この研究会では、大阪大学総合学術博物館の伊藤謙さんと、私が共同代表者でした。これに参加した石橋隆さんは、日本有数の岩石鉱物を肉眼で見分ける達人ですが、彼が石見銀山に遺されていた日本最古級の「江戸時代の鉱石標本」について語ります。鉱山としての石見銀山は鉱物学的にどのような山であるのか、銀の品位はどれぐらいなのかなど、今のように掘り尽くされる前の銀山の様子がわかる話をしています。

 このように、本書は、経済史、国際外交、環境問題、鉱物学、教育学、本草学など、国際的・学際的な視点から石見銀山を見て、人類そのものの歴史を考えるものです。さらには、世界遺産になった銀山を文化観光や教育にどのように生かすのか、東京大学未来ビジョン研究センターの福本理恵さんに加わっていただき、論じました。経済的繁栄から衰退へ、人口の急増と急減、そして環境問題や過疎への対応、われわれの課題の多くは「石見銀山の歴史」に詰まっています。

 驚くべきことに、「マスクの着用」も、この銀山と深いかかわりがあります。幕末にこの銀山で日本初の近代的マスクが開発され、着用が始まったとされるからです。小さな本ですが、この本から得られる知識や視点は広く大きなものになるように設計しています。この本から、読者のみなさまが「知的発想の銀鉱石」を掘り出していただければ幸いです。

磯田道史