見出し画像

はじめに|本郷和人×島田裕巳『鎌倉仏教のミカタ 定説と常識を覆す』

はじめに――日本史における鎌倉仏教 本郷和人

 今なぜ鎌倉仏教か。歴史学の観点から簡単に見てみましょう。
 
 戦前の日本史学は、鎌倉時代に誕生した仏教を高く評価しました。法然、親鸞、一遍と続く浄土の教え(浄土宗系)。厳しい修行で知られる禅宗と武士の結びつき、それらの隆盛を弾劾して蒙古(モンゴル)襲来を予言した日蓮の激しい布教活動。鎌倉時代の到来は、仏教の新しいムーブメントの登場と軌を一にしていました。鎌倉時代を知るために、また日本人の精神を知るために、歴史研究者は鎌倉新仏教に注目したのです。

 これに対し、戦後の京都の研究者たちは、根本的な批判を試みました。それは鎌倉時代そのものの見直しと連動して提起され、仏教と政治・経済の連関に新たなイメージを与えたものであったがゆえに、説得力を持ちました。 
彼らの説くところでは、鎌倉幕府の成立と維持は朝廷あってこその動きであり、この時代の展開は古代と同じく、天皇の王権と京都を中心として解析しなくてはならない(その結果が「権門体制論」)。中世の精神世界を構成する大きな要素であった仏教の動向もまた、基軸は京都に求めるべきである。すなわち、仏教の太い幹は依然として天台宗・真言宗の密教であり、鎌倉新仏教は枝葉なのだと主張したのです(「顕密体制論」)。
 
 こうした研究史を踏まえ、私は民衆の側からの視点を取り入れて、鎌倉仏教の再評価を試みました。武士という存在の本質をどうとらえるべきか。すなわち、京都とのつながりを重んじる地方官とするのか、それとも地方・地域のリーダーと見なすのか。その議論に決着はついていませんが、私は室町・戦国時代への展開に配慮して、後者の視点を重視します。この時、武力を表看板とする武士たちが、なぜ地域の農民をよりよく統治することに目覚めていったのか。そこに仏教の影響を見ようとしています。
 
 ただ、私のこうした取り組みは表面的、上っ面なものにすぎないようにも感じられます。仏教は人間が生きるための道具であり手段ではありますが、精神こそ肉体の主人であるとの視点が容易に成立することを考慮すれば、当時の武士、また古代に比べて飛躍的な社会進出を果たしつつあった庶民の精神世界こそが、彼らの行動を規定しているとも受け止められる。そうであるならば、中世社会をより深く知るために、学問としての仏教ではなく、彼らのなかで実際に生きていた仏教に近づきたい。私はそう念願するようになりました。
 
 そんな時、宗教学者の島田裕巳先生が、「浄土宗」とか「浄土真宗」とか「日蓮宗」等の「宗派」という枠組みを外して仏教とは何かを考えてみよう、と説かれているのに接し、私は「そうか!」と深い感銘を受けました。
私たちは名画を見る時、それがルネサンス派かバロックか印象派か、とまず定規をあてるでしょうか。クラシック音楽を聴く時に、古典派かロマン派かを気にしてから感動するでしょうか。絵のすばらしさ、旋律の妙に心を動かされるのが第一で、分析は後回しのはずです。まずは心をカラにして絵や音楽と向き合う。それが本当の鑑賞体験です。

 宗教も同じではないでしょうか。まずは祖師(開祖)たちが説く仏の世界を体感するところから始めましょう。私たちの祖先は、人間を超える聖なる存在とどう向き合ってきたのか。この対談は、それを知るためのものです。

 鎌倉仏教は「庶民に対して」仏とは何かを説きました。あなたも私も、仏の話を聞く権利をちゃんと持っているのです。こむずかしい倫理や論理は不要です。「大いなるもの」に包まれる気分でお楽しみください。