往復書簡 第4便「きげんよくすること」(返信:ウチダ)

こんにちは。内田樹です。
今回は「ごきげん」についてですね。

僕は朝は道場におりて、「朝のお勤め」をします。柏手を打って、オキナガという呼吸法をして、三種の祝詞を上げて、般若心経を唱え、不動明王の呪文を唱え、九字を切り、それから中村天風先生の「今日の誓い」の言葉を朗誦します。九字までは「道場を霊的に清める」ための儀礼ですが、最後の「誓い」は自分に向けての言葉です。

天風先生の「今日の誓い」はこんな誓言です。

 「今日一日、怒らず、怖れず、悲しまず、正直、親切、愉快に、力と勇気と信念とを以て、自己の人生に対する責務を果たし、常に平和と愛とを失わざる、立派な人間として生きることを厳かに誓います。」

自分に向かっての誓いですけれども、こういうのはたしかに「効く」んです。なにしろ大きな声に出して言ってしまったわけですから、何か不愉快なことがあっても、いきなり「怒り出す」ということについてはつよい抑制が働く。人間というのは人から命じられたことには簡単に反抗できますけれど、自分に向かって言った言葉を軽々に裏切ることはなかなかできません。

この誓いの言葉はどれもたいせつなことばかりですけれども、「怒らず、恐れず、悲しまず」は自分の心についての誓いですから、自己努力で何とかなります。でも、「正直、親切、愉快」というのはどれも対人関係での心構えです。相手があっての話です。この三つが「人と向き合うときの基本的なマナー」だということになります。

正直、親切、愉快の三つの徳目のうちでは「正直」が最初に来ます。これは、「さすが天風先生」だと思います。
「正直である」というのはけっこう難しいんです。何か言いかけて、「いや、これはちょっと違うかも知れない。自分のほんとうの気持ちはこの言葉には託せない」と思うと、言葉に詰まってしまう。あるいは何か言ったあとに「ごめん、いまのなし。いまの話取り消してくれる?」と前言撤回する。そういうふうに、言い淀んだり、ためらったり、絶句したり、同じことをなんども繰り返したり、前言撤回したり・・・というのが「正直」の語法です。

これ、とてもたいせつなんです。今の社会では、言いたいことをはっきりと、論理的に、わかりやすく言うことが求められますけれど、この要求に過剰に適応すると、つい「はっきりと、論理的に、わかりやすく言えること」だけを選択的に口にするようになる。ぼんやりした、星雲状態の、生成状態のアイディアは口にしにくくなる。だいたい、そういう話を忍耐強く聴いてくれるという人はあまりいません。でも、その圧力に屈服してしまうと、僕たちは「前に言ったこと」を思い出してそのまま再生したり、「誰かから聴いた定型句」を繰り返すようになる。

正直であることには、それなりの勇気が要ります。何よりも正直であるためには、「自分が正直であることを受け入れてくれる聴き手」が必要です。言い淀んだり、押し黙ったり、ぐるぐるまわったりするこちらの話を黙って聴いてくれて、ときどきあいづちを打ってくれる聴き手が必要です。そういう聴き手をあらかじめ確保しておかないと、なかなか正直になることはできません。
そして、このような「聴き手」を確保するためには、どうしても「親切と愉快」が必要になる。そういうロジックです。
まわりの人のかすかな「救難信号」に敏感に反応して、「なにかお手伝いできること、ありますか?」と手を差し伸べる。いつもできるだけにこにこしていて、「一緒にいると気持ちがくつろぐ人だなあ」と周りの人に思ってもらう。それが「親切と愉快」です。

「親切」と「お節介」は似ているようでだいぶ違います。「親切」というのは、困っている人に手を差し伸べることです。それは「助けて」というシグナルを聴き取ることから始まります。そして、その「助けて」は聴こえる人にしか聴こえない。当たり前ですね。ただし、「聴こえる人」の数はそんなに多くはありません。ほとんどの人はその「助けて」を聴き落とします。だから、立ち止まって、救難活動を始めなくても、それは別にその人が「薄情」とか「利己的」ということじゃないんです。聴こえないんです。聴こえないものは仕方がありません。
でも、中にときどき「聴こえてしまう人」がいる。その人は「救難のために選ばれた人」です。その場合は、立ち止まって、May I help you? という問いを差し出す義務がある。
それが親切です。

愉快というのは、「この人なら救難信号を聴き取ってくれるかも知れない」という期待を扶植することです。「仕込み」ですね。
愉快な人であることに価値があるのは、そういう人がいると周りが明るくなって楽しい、という積極的な意味だけではありません。だいたい愉快な人に向けて「救難信号」は発信されるからです。

雪山救助のセントバーナード犬というのがありますよね。あの犬の特徴は「ほっこり」していて「もこもこ」していて「包容力がありそう」ということですね。あれが、シェパードみたいにきりっとした犬だと、救難活動のときに「おい、ちゃんと装備しないで登るからこんなことになるんだぞ。冬山なめたらあかんど、こら」と説教されそうな気がしますけれど、セントバーナードだと、あまりそんなことを言われる気がしない。ぺろぺろと顔をなめてくれて、「大丈夫ですか?」とブランデー(首輪につけているんですよね)を飲ませてくれそうな気がする。
救難に必要なのは、この「セントバーンバード性」です。ほっこり、もこもこ、包容力。てきぱきと救難活動を差配するシェパード的な社会的能力の高さじゃないんです。それ以前に、誰かに助けを求めるような事態に自分のせいで陥ってしまったんだけれど、それでも「助けて」というシグナルを「聴き取ってくれそうな気がする」という「甘さ」なんです。
これが「愉快」の実相であります。

僕はそんなふうに理解しています。別にのべつにこにこ上機嫌ということではなく、救難信号に対して開かれているという「感じ」がするということです。この人なら助けてくれるんじゃないかな~と思える「感じ」のことです。

正直、親切、愉快というのは、どの一つが欠けても機能しなくなる「トリアーデ」を形成している。そういうふうに理解したらよいかなと思います。

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