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演劇の三要素、演技の三要素

ピーター・ブルックは著書『なにもない空間』のなかでこう記した。

どこでもいい、なにもない空間ーそれを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る。もうひとりの人間がそれを見つめるー演劇行為が成立するためには、これだけで足りるはずた。
引用:ピーター・ブルック『なにもない空間』

と。演劇の最小単位を示したこの文の中には我々俳優が忘れてはならない行動について記されている。
それは、『ひとりの人間が(中略)横切る』そして『もうひとりの人間がそれを見つめる』である。

元々は、【劇場(裸の舞台)】【俳優】【観客】の関係性を示したのではないかと思われるこの三つの要素だが、これらは互いに影響を与え合い重なりあった時に相乗効果を生み出し『演劇行為』を成立させることとなる。逆にいえば、どれかひとつでも欠けていたり、単体だけで見たときには相乗効果も生み出さず、『演劇行為』も成立しないと言うことだ。
が、この図はたしてそれだけの関係性にとどまるものだろうか?
20年以上俳優を続けていてようやく最近得た気づきだが、この三要素は俳優の仕事にも密接に繋がるといえる。もっといえば、演劇の三要素のうち、俳優に科せられた部分。【ひとりの人間が(中略)歩いて横切る】を成立させるために大切な要素もまた、この図を使って表すことができると言うことだ。
要素をそれぞれ置き換えていってみよう。

裸の舞台
これは、そのまま『舞台』ととることもできるし、『場所』ととることもできる。劇場なのか、稽古場なのか。セットが組んであるのか素の舞台なのか。それは問わない。
俳優の仕事に置き換えれば、それはそのまま舞台ということにもなるだろうが役を演じている際の俳優に限っていえば舞台とは【役が存在する環境】であろう。舞台はシーンによって様々な顔に変化する。ある時は教室に、ある時は城に、ある時は宇宙に、あるときは牢獄に。
たった一言『お腹減ったなぁ…』という科白を言うにしても環境が変われば観客の想像力も変わる。
役にとっての裸の舞台とは【環境】の事なのだ。

ひとりの人間が(中略)横切る
横切るという行為、これは『行動』と言い換えることができるだろう。
シーンを演じる際には台本があり、科白がある。なかにはアドリブでつないだり、インプロヴィゼーションに流れを任せたりということもあるが『演じるべき内容があり、それを演じるために必要なアクションを引き出す伝達可能な技術』を演技の定義とするからには演じるべき内容にそくした行動を求められるわけだ。
ただし、この行動は演じるべき内容そのままをやればいいというものではない。
横切るというアクションひとつとっても、「横切ろうと考え行動に移したのか」「横切るよう命令されたから」なのかそこには役の主体性が伴わなければ。『書いてあるからやった』では役の主体性があるとはいえない。それでは俳優の主体性であり、役の主体性とはいえない。このへんは課題の分離もあるし複雑になるのでまた別の機会に解説を譲るが役にとっての【主体性】ということである。

ひとりの人間がそれを見る
演技では、舞台、俳優、観客の三つが揃わなければそれを構成することはかなわないわけだが、役がアクションを行なっていないとき役はまた外からのアクションを受けているのだ。すなわち、情報を自身にインプットしているというわけだ。
というわけで、ひとりの人間がそれを見つめるという要素は置き換えると【他力】である。他力とは、自身が演じる役以外の役や、環境の変化。自身が演じる役がそれらに反応できなければ変化もない。
他者からのアクション、環境からのアクション…それでは、演技の様々なアクションがシーンには溢れている。役は主体性でもってその他力が起こすアクションに反応をする。
この他力は台本に書かれていることもあれば、交流の積み重ねから現れることもある。
役ではなく自分の事だけになってしまっては他力を頼ることはできない。また役だけに集中していても交流することはできない。他力を頼み、役の主体性を大事にしても環境が伴わなければ真実の瞬間は見えてこない。

それでは演技の三要素を図でしめしてみよう。

環境と他力によって、自身の主体性は変化していく。主体性だけでも、他力を意識するだけでも、環境にいるだけでもならない。
それぞれに目を向け、重なりあり合う瞬間を楽しもう。

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