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こえ と ことば ②

演技は教わるものではない
この数年で強く感じるようになったことである。仕事として演技は求められるものだ、しかしながらその演技を教わることというのは至極難しい。その理由はいくつかあるが、第一に、求められる演技は毎回異なること。第二に、感じ方は十人十色であること。第三に、演者が持っている素養もそれぞれ異なるためだ。
他にも細々とした差異はあるものの教えることが至難であることの原因は概ねこの三点に集約されるのではないだろうか。
本来であれば、演技をする役者個人個人に目を向け、役と向き合い、不足している点や見逃している点などをトレーナーは細かに伝えていかなくてはならない。だが、各育成機関で設定しているカリキュラムではこういった人を見るトレーニング方法は現実的ではないだろう。素養が異なれば、能力的に劣っている人間が目立ってしまうし、結果作品を作ろうとすると必然的に能力が劣っているいる人間にかかる時間が増えカリキュラム内での時間配分にバラツキが生まれてしまう。そうすると、同じ金額を納めてトレーニングに来ている人間からは当然不平不満が出て来てしまう。しかし事業者はトレーナーに平等を求める。こういったクレームは事業にとっては痛手であるからだ。自然、トレーナーは時間を均等に配分したような中途半端なレッスンを繰り返すことになってしまう。結果、受講する役者の成長は全体の能力が緩やかに向上すればよい程度のものになってしまう。
また、カリキュラムが基礎と実技で別れている場合もある。その場合は不足分をトレーナーが直接求めている水準まで持ち上げることも困難であるし、その点を埋めるための取り組みは役者の自己管理、自己努力に任されてしまう。自己管理は俳優人生を始めたばかりの人間には非常に困難だ。多くの場合、トレーナーが求める水準までの技量が身につかないまま時間だけが過ぎ、育成期間でのレッスンの回数は増えていく。演技の基礎が満足に身につかないまま事務所に所属し、仕事に出るようになると、その段階では演技は求められるものであり教わるべきものではないため、その時点で学習の癖がついていない者には厳しい現実が待っていることだろう
現在数多くの育成機関で教えることのほとんどが、先輩俳優や演技の経験が乏しい人間が行う基礎トレーニングやリザルト演出…(注釈:俳優が表現したものに対しての結果だけを見た演出のこと。俳優の演じた背景を見ない演出は表面は整えられても再現性に乏しいように思える。)に頼ったものが蔓延しているように感じる。演技とは一体なんなのか、どのようにシナリオを読み解き、どのように実演に結びつければ良いのか。
それには演技とはなんなのかを理解する必要があるだろう。そのうえであえて演技の学び方を提案するとすれば…演技とは選択するものである。という事になる。自分が目指す演技、自分が求められる演技を、自分でカスタマイズし、自分で仕上げていくのだ。
だが、ひとりではやはり不安なもの。不安な道標となるトレーナーは頼ってもいいだろう。いわばナビだ。

演技の定義
『演技』の定義とはなんだろうか? アドリブしかり、インプロやエチュードしかり演じる戯曲がなければ演じることができないわけではない。広い意味での『演じること』とは、日常生活であってもいたるところにひそんでいる。しかしながら、我々は演じることを仕事として扱うことを目的とするのであるから、この演じることを技の域まで昇華させなければならない。
演じる技、すなわち演技である。技術とするからには、場当たり的な方法論や、感情論のみを演技とすることは少々違和感を感じる。
個人の発想、努力や経験のみの蓄積のみに頼った技術は演技とは言い難い。ここで定義する《演技》とは、ひとまず【 演じるべき内容があり、それに対応するための伝達可能な技術 】であるとしておきたい。そうする事で再現性のある演技の定義であると仮定し、それに必要な条件付として拙文の用法を『戯曲(シナリオ)』『映像作品(シナリオ)』『音声作品(シナリオ)』に限定するものとする。

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