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自分は欧米文化圏で暮らすのに向いていないのかもしれない

今日はネガティブな自分語りをします。でも、共感できる人もいるはずです。人間そんなに強いわけではないです。自分なりに頑張っていることをほめてあげましょう。

私がなぜ英語に興味を持ったのかというと、入り口は「文化」ではなく「言語そのもの」だったんですね。なんだか、日本人なのに、日本語以外の言語を理解して、話しているの、かっこいい!と思ったのです。
そして、私もあんなふうになりたい!と思ったのが始まりです。高校1年生の時ですね。
後に大親友となる友がその存在でして、強引にALTの先生とランチをしたり、遊びに行ったりする中で、英語を話せるようになっていきました。

入り口が文化ではなかったので、大学でさらに英語や欧米文化について触れるにつれ、「文化の違いっておもしろいな」と思うようになっていきました。それでも、例えばチップ文化とか、ベジタリアンというものがあるとか、クリスマスがとても大事だとか、そういった表面的なことばかりでした。

こちらへ来て痛感しているのが、自分は本当はカナダの社会で生きるのに向いていないのではないかということです。折に触れ感じてしまいます。

それは、自分に自信がなく、自分の意見がないということです。

カナダで生まれ育ったクラスメイトたちは、自分の強みをよく知っています。「私は芸術肌。発表のデザインは任せてね」「私はダンスが好き。ダンスを通して子供たちに自己表現のすばらしさを教えたい。」など、自分の得意を語ることができます。
とても素敵ですよね。

私はこれができません。

授業や、面接ではできますが、プライベートになると「自慢している自分」が醜く見えて、どうしてもできないのです。
そして、他の人がそうしていると、「偉そうだな」と少なからず思ってしまう自分がいます。そんな自分にも自己嫌悪してしまうのです。

また、こちらでは、自己開示が積極的に行われます。
ただの友達なのに、そんなプライベートな話までしていいの?という感じで、自分のことを語ります。
そしてその話の組み立てがとても上手で、まるで一つのストーリーを聞いているかのようです。

ここには2つのポイントがあって、一つは「境界線」でもう一つは「話す力」です。

「境界線」について、日本的価値観だと、公私がはっきりしていますよね。私は日本人の中でも、「プライベートを教えたくない」「自分を守りたい」という気持ちが強いみたいです。
例えば、私の友達にAさんという人がいたとして、その人の話をするときに、あまりにプライベートだと「この話、Aさんに許可とってないな。話さないでおこう」とか、「名前を伏せて、一般化しよう」とか思うのです。
しかし先日、ある人に「どうしてあなたはあなたの友達の名前を教えてくれないの?わたしと距離をとりたいの?」と言われてしまいました。

なるほど、これって距離をとっていると思われるのか、と思いました。

本当は、そう言われたときに「この人は人のプライベートにまで入り込んでくる、ずうずうしい人だな。」と思いました。
しかし、あらためて思い返してみると、カナダで生まれ育った人は結構、友達や家族の赤裸々な話をしていることに気づきます。
無意識のうちに、家族や友達の名前を含め、その人たちがどんな人たちなのか知っている自分がいるのです。会ったこともないのに。

「話す力」については、議論やストーリーテリングの訓練がずっとされてきているのだろうなと思います。カナダの授業では、自分のことについて語る機会がたくさんあります。

この前の宿題は、「自分を表している絵本を一つ選んで、その絵本がどのような形で自分を表しているのか、発表してください」というものでした。
私は、星がテーマの絵本を選び、天体に興味があったこと、仕事で疲れた時に夜空を見上げて星座を見ることで元気になったこと、比喩としての星(その人にとって大切なもの)を常にもっておくことで、自分という存在が特別なものになり、そのように子どもたちにも思ってもらいたい、などということを語りました。

こんな自己開示の機会は、日本ではなかったことです。
むしろ、「苦手な子」に配慮して、避けられていたきらいさえあるのではないのでしょうか。

このように、カナダの教育には、自分について分析し、それぞれが特別な存在であることを認識し、語る機会が多くあるのだと思います。
流暢に語る友達を見て、うらやましく思ったし、悔しいなと思いました。私って自分のこと全然しらないな。家族や友達についても全然知らないな。って思ったのです。

「境界線」の話と関係するのかもしれませんが、私の価値観は、「人に関わりすぎない」「一人でも生きていける」「人が何をしてようと関係ない」というものです。
こうすることで、自分が傷つくリスクが減り、心地よかったのです。深い関係を築こうとすると、おのずと傷つくリスクも増えます。

しかし、そうして生きてきたことにより、確かに自分を守ることはできましたが、カナダの社会で虚無感を感じるようになりました。
心の底では、人との深いかかわりを求めていたのだと気づきました。

両親がどうやって出会ったのか、どこに惹かれたのか、どんな子供だったのか、どんな仕事をしていたのか、知らないのです。
自分には関係ない、と思っていました。
でも、他の人はみんな知っているのです。そして語ることができるのです。

人とのかかわりを避けて生きてきた代償なんだな、この虚無感は、と痛感しています。率直にいって悲しいです。
今、人とのつながりを築こうとしているのですが、どうしても傷つくのが怖くて、人のアドバイスを攻撃だとしか受け取れず、逃げてしまいます。
こんなことは人生で初めてで、もっと心地よい場所はないか、探してしまっています。
心地よい場所とは、人と関わらない、傷つく心配のないところです。

私が英語を学び始めてから、英語を話すと少しだけ前向きになれることに気づきました。日本語を話す自分は自信がなく、アドバイスを受け入れられず、プライドが高く、傷つくことを極端におそれる自分です。英語を話すと、自信がもて、少しだけ強くなれるような気がしたのです。

だから、英語を話せる環境に身を移しました。
後ろ向きな自分を変えるには、外の環境を変えるしかないと思ったからです。形から入るタイプなのです。

でも、環境を変えても、30年間治らなかった上記のような人格を変えるには至っておりません。本来の自分は、日本人の中でも極端に日本人らしいといいますか、シャイで臆病でプライドが高く、Noと言えずほかの人の意見に賛同することをよしとしていて、自分で何かを判断したりすることのできない人間です。
そして「それでもいいんだよ」って誰か言ってくれないかな~って甘えている赤ちゃんみたいなもんです。

だから、自分を変えたくてカナダに来たけれど、本当はここで暮らすのに適していない人間なんだろうな、と思っています。言語だけ学んで、文化を受け入れることができない、なんてことはあってはならないはずなんですけどね。選んだのは自分なので。

そうであれば、日本に帰った方がいいとまで言われてしまいました。
正論ですが、傷つきますねさすがに。
みなさんであれば、なにくそ!と思って頑張りますか?私は、そんなに強くないので、あ~自分って駄目なんだな、情けないな。ここに来る資格なんてなかったんだな、という思考のループに陥っています。

自分に自信をもつって、どうやってやるんでしょう?
私の意見としては、誰かに「君はそれで大丈夫」って言われないと、自信ってつかない気がするんですけど。
「自分で自分に言い聞かせる」って言ったって、その自分が他人に否定されたら、どうやってその自分に「それでもいいよ」って言えるんですかね。
小さいころから、そのように言われ続けてきたカナダの人たちが本当にうらやましく思います。つまり、私はこの人格を人のせいにしているのです(親が悪い、日本の教育が悪い、褒めてくれない周りが悪い)。恥ずかしいことですが、これが正直な気持ちです。情けないですね。

なんだかとりとめのない文章になってしまいました。
私の星はどこにあるんでしょう。誰に何を言われても揺らがない、ポケットに入れておくべき星が、見当たりません。

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