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親の心子知らず(其の二)

 手に一枚の古い写真がある。白黒で今のサイズよりも随分と小さい。母親の腕の中におさまっている小さな赤ん坊は、まぎれもなく生まれて間もない頃の僕だ。母は自分の生んだ息子がかわいくてかわいくて仕方がない、というように満面の笑みを浮かべている。母は二十二歳。まだ若く、息子の目から見ても美しいと思う。
 しかし、その母を心無い言葉で傷つけてしまったことがある。僕が高校生の頃だ。当時の僕は自分の人生が思い通りにならないもどかしさを、家族にぶつけていたようだ。母との口喧嘩も絶えなかった。「昔はいい子だったのに」と母が言えば「それは親にとって都合のいい子だっただけじゃん」と言い返す。はたまた「これが自分の息子だと思うと情けなくなるわ」という言葉には、そっくりそのまま「俺のほうこそ、親がこんなんで恥ずかしいわ」とやり返す。そして最後は「あんたなんか置いて来ればよかった」と泣き脅すのが母の常とう手段だった。いわゆる売り言葉に買い言葉というやつだが、家族に対して甘えがある分、容赦がない。僕ら親子はまるで磁石の同極のように反発しあい、そんな攻防を何度となく繰り返した。当時の母は下着の訪問販売をしていて、それなりのポストも与えられていた。きっと仕事の疲れやストレスもあったことだろう。それを思いやることができるほど大人でなかったのが悔やまれる。
 そんなことがあって以来、母と僕の間には一本の線が引かれてしまったような気がする。当然のことながら傷つけた方は忘れてしまっていても、傷つけられた方はいつまでも覚えている。今でも母は酒に酔うと当時のことをねちねちと責めるのだ。血を分けた親子であっても言ってはならない言葉がある。今ならばそれがわかる。でも後悔をしても時間を巻き戻すことはできない。
 なぜこんなことになってしまったのか。思い返せば思春期を迎えた僕は母を疎むようになっていたのかもしれない。いや正確にいえば自分の性格が嫌だったのだろう。母の性格は直情型で感情優位。カーッとなったら周りの迷惑など考えず真っ直ぐ突き進む。その遺伝子は確実に僕に引き継がれている。高校生の僕はその逃れられない宿命に気づいたのだろう。あるいは結婚と離婚を繰り返した母を、意識していないだけで本当は恨んでいたのかもしれない。
 たまたま今読んでいる山崎ナオコーラの『あきらめる』に 〈人を嫌いになりそうな時は離れるのが一番、距離は人を好きにさせる〉という言葉を見つけた。確かにそうかもしれない。母の庇護がなければ生きていけなかった幼いころと違い、今は自分の幸福にかまけてばかりで、そこから離れたところに母の存在がある。母はすでに家族ではないのか。この本のタイトルのように家族であることをあきらめろということなのだろうか。一方、けんかをしても会いたくなくても、簡単には離れられない、それが家族だともいえる。特に両親が歳を取るごとに弱くなり、その逃げられない関係性をひしひしと感じている面もある。親子関係を修復する答えは本の中や自分の内側からは見つけることはできそうにない。そもそも正解なんて存在するのだろうか。いや本当は解がわかっているのに、その一歩を踏み出す勇気がないだけなのかもしれない。

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