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世界に翔ける 〜イギリス大学院留学体験記〜

焦燥

とにかく、時間がなかった。

2022年、大学4年生の夏である。周りの友人は就職先が決まり始め、まだ自分だけが明確な進路を持てずにいる状況は、いささか芳しいとは言い難かった。受験の時にもこんな思いしたっけー。そんな4年前の記憶が脳裏をかすめる中、志望校へのデッドラインは着実に迫ってきているのだから、焦りは募るばかりだった。


覚悟 ~大学受験~

ーお前は自分のやりたいことをやれ。

そう教えてくれたのは、高校の恩師であった。高校生は、自分の将来や進路を熟考するにはまだ精神も経験も圧倒的に未成熟なものである。当時「数学が好き」という理由だけで理系の選択をし、理系でありながら英語の偏差値だけが異様に高かった僕も、間違えなくその例外ではなかった。高校での3年間は、部活と勉強に打ち込んだ。バスケ部の練習を終えクタクタになって帰宅し、即就寝。朝は4時か5時に起きて勉強をしてから学校に行くという生活をただただ送り続けた。こうした鉄の規律に従うような生活の終止符が、大学入学と同時にキラキラしたキャンパスライフに一変することで打たれるものだと信じて疑わなかった。

しかし、現実はそう甘くないものである。受験当日、僕のセンター試験(今で言う共通一次試験)の点数は、惨憺たる結果であった。志望校の変更を余儀なくされたそのありさまは、自信喪失そのものであったに違いない。自己採点が終わったその日、いつもの勉強部屋で僕は1人静かに肩を落とした。しかし、いくら落ち込んでいても時間は待ってくれない。まずやることは状況を冷静に受け止め、出願の戦略を練ることである。そこから両親と、高校の担任の先生との面談づくしの日々が始まった。最終的に、自分の大好きであった英語が活かせる国際系の大学と学部に絞って出願した。今思うと、センター試験後に理系から文転するという前代未聞の意思決定ができたのは、担任である恩師がくれた以下の言葉のおかげに他ならない。

「給料や待遇がいいからといって、全員が医者になればいいというわけじゃない。それぞれの人には向き不向きや好き嫌いがある。そういう感情に正直になって生きることが大事なんだ。お前は英語が好きなんやろ。だったらお前は自分のやりたいことをやれ。」

この言葉は、進路選択に迷走し、己の未来を暗中模索する何の経験もスキルもない18歳若造の胸には痛いほど沁みた。受験後、必ずグローバルに活躍し、世界を飛び回る人間になるとその恩師に誓い、高校卒業の門をくぐった。

舵 ~大学院留学の決意~

昔から、飽き性な方ではあった。
子供の頃も日記を書くと旅行先でごねて、両親を困らせた挙句最終的に買ってもらった日記帳は枚挙にいとまがなかった。そんな性格も相まって、大学入学後はアルバイト、サークル、学生団体、インターン、留学などいろいろなことに打ち込んだ。

そんな僕が大学院留学を決意したのは、大学3年生の春まで遡る。きっかけは、もともと予定していた英国マンチェスター大学への交換留学が、新型コロナウイルスの影響でオンライン留学となったことであった。オンラインで安く日本から授業を受けれたのは素晴らしい経験であったが、同時に大学院留学で必ずリベンジすると決意するまでにそう多くの時間を要さなかった。時差の関係で授業は深夜スタート、日本にいる影響で現地の友人も全くできないといった現実は、思い描いていた留学生活の理想と乖離し過ぎていたのである。

大学院の正規留学を果たすには、日本の入試のシステムとは全く異なる受験を突破する必要があった。英語の履歴書、願書、推薦状をはじめとする各種書類の準備と、英語力を証明するIELTS、GMATなどのテストに加え、僕の出願したビジネススクールの多くは面接が課せられており、その対策も困難を極めた。何せ周囲に大学院留学をした先輩や知り合いがいないせいで、情報がないのである。ネットにある情報をしらみつぶしに調べ尽くし、留学生の友人やオンライン英会話の講師と書類添削、面接練習を行う日々が続いた。この間、ずっと続けていたアルバイトも大好きだったボランティアもサークルへの参加もやめた。自分の将来が、この一挙手一投足にかかっているという不安と焦燥感を払拭するには、ただただ目の前の準備に全神経を注ぐ他なかった。

そして大学院出願開始から約半年。やっと出願地獄から解放されロンドン行きの切符を手にしたそのときには、僕は既に大学を卒業していた。

煩悶 ~初日のワークショップ~

留学が決まってからは、きっと留学先でも輝かしい未来が待っているに違いないと信じて疑わなかった。こんな苦労を乗り越えてきた僕なら、現地でも爪痕を残せるに違いない、という、今思うと何の根拠もない自信というより慢心を抱き関西国際空港を飛び立った。しかし、そんな漠然とした気持ちが見事に打ちひしがれるまでに、そう長くはかからなかった。

忘れもしない、大学スタート1日目のワークショップでの出来事である。講義室に集まったこれからクラスメートになる学生の顔ぶれを見ていると、日本人は僕だけであった。ワークショップの内容は、少人数グループで資料に書かれた架空の殺人事件に関する情報を分析し、グループ内で話し合って犯人を決めるというもの。なるほど世界トップクラスのビジネススクールの授業内容は、講義というより超実践形式なようである。しかしディスカッションが始まると、待ち構えていたのは見たことないような白熱した議論と飛び交う意見の言い合いであった。呆気に取られたとはこのことである。中高大と日本で育ち、日本独特の空気を読んで周りを尊重しながら議論を前に進めるという環境で青年期を過ごせば、そうなるのも当然ではないだろうか。結局僕は、その日の議論で一言も発言できずに、胸を躍らせていた留学初日が見事に惨敗で幕を閉じた。ほぼ同じ年齢にも関わらず、相手の意見を全否定することを全く厭わない海千山千の学生たちの集まりの中に、自分1人が放り込まれた感覚だった。僕は慢心していた自分の英語力と就活で鍛えたロジカルシンキングが、いかに井の中の蛙であったかを痛感した。

諦めたくなかった。奨学金の受諾と生活費の切り詰めを行っているとはいえ、決して安くない学費を負担してもらっている両親や家族のことを考えれば、キツいので無理でした、などと諦めることができるはずもなかった。

起死回生  ~大学院での授業~

しかし、大学院の授業は本当に辛かった。授業の8割はグループワークやディスカッションであり、発言をするどころか、最初は相手が何を言っているのか、何の議論をしているのか自体が理解できない。僕の通っていたKing's College London のビジネススクールでは、講義とチュートリアルの2種類の授業スタイルがあった。チュートリアルとは、10〜20人くらいの少人数形式で教授も交えてひたすら議論をするというもので、講義形式の授業でも近くの人と話して意見を共有する機会がしばしばあった。チュートリアルの場合、事前課題が与えられていたためまだよかった。リーディング課題やトッピクについて一通り調べ、事前に論理武装できたためである。問題は教授がいきなり「はい、じゃあこれについてディスカッションして後で発表して」という場合である。この場合、その場で持ち合わせている知識と英語力のみで話し合うことになるわけで、グループに貢献できないのは火を見るより明らかであった。

そんな状況が続いている間に、あっという間に数ヶ月が過ぎた。自分の無力さに失望し、帰り道のロンドンバスの中で自暴自棄になりそうなことが何回もあった。どうすればもっと議論についていけるのかをひたすら考え、最低3回は絶対に発言すると心に誓って議論に臨んだり、90分の授業に8時間の予習をかけたこともあった。

覚悟はできていた。大学院留学の情報収集をする傍ら、リーディング課題や英語力のなさに打ちひしがれ、忙殺される体験談をインターネットで飽きるほど見ていたためである。しかし、そうした情報を見聞きするのと実際に経験するのとではまさに雲泥の差であった。

それでも絶望せずに貪欲に前を向き続けられているのは、中高と体育会バスケットボール部で心身を鍛えた賜物か、ただ純粋に英語が好きという好奇心というほかないのかもしれない。ただ、何とか授業や議論に食らいついていくうちに、徐々に自分の言いたいことが発言できるようになってきたのも、また事実であった。予習を行い、ディスカッションで自分の英語力に躊躇せずとにかく発言し、議論を前に前にと進め、帰って反省を行う。そんな全くキラキラしていない生活を続けて数ヶ月、グループ内でも僕の仕事量と熱量を認めてくれる友人ができ始めた。そんな中自分の努力が少し実り、初めて議論で意味のある発言をしてグループに貢献できたと実感できた時、達成感で休み時間泣きそうになったものである。

苦しい時、状況を好転させるのは、多くの場合日々の小さな積み重ねでしかない。困った時に何でも解決してくれる四次元ポケットも、九回裏満塁ホームランでの大逆転勝利も、現実世界ではほとんど存在しない。この時、高校での恩師がくれた「継続 ”こそ” 力なり」という言葉を思い出した。そんな人生の教訓を教えてくれたのは、まさに大学院留学で打ちひしがれながらも、何とか議論についていこうともがき苦しんだ経験であった。

結実~コンサルティングプロジェクト~

あっという間に1タームが終わった。しかし、タームが終わっても自分英語力の伸びや、人間としての成長が目に見えてわからない状況が続いていた。このままで留学成功と言えるのか、と漠然とした不安を抱えながら2タームがスタートした。僕の大学では、1ターム目は全てが必修科目だが、2ターム目から自由度が増し、選択科目がカリキュラムに含まれたり、修士論文を書くか代替のプロジェクトを行うか選べたりする。このプロジェクトはコンサルティングプロジェクトと呼ばれ、実際の企業の管理職をクライアントにチームを組み、チーム内でディスカッションを繰り返しながら課題解決を行うという、今まで学んできた集大成そのものであった。この時、留学後は外資系コンサルティング企業に就職することが決まっていた僕は、ふたつ返事でプロジェクトへの申し込みを決めた。今までの経験と将来の展望を余すことなく書いたエッセーを提出するとあっさりと選考に通り、僕の大学院での最後のプロジェクトが幕を開けた。

しかし、このコンサルティングプロジェクトは多忙を極めた。クライアント企業に選ばれたのは、スコットランドに本社を置く大手エネルギー企業で、クライアントからの要望は“how to win the market?”という問いについて考えて発表してほしい、という具体性のぐの字もない課題であった。つまりこれは、「何が課題かもよくわからないから、とりあえずそこから考えてくれ」と言っているのと同義である。

正直荷が重いと思った。担当してくれたスーパーバイザーの教授も、「これだけ抽象度が高い課題を学生だけで解決するのは相当難しいと思うけど、まあ頑張って」と良きに計らえという感じであった。何せクライアントは在宅ワークで対面で会えない上に、財務分析とネット上の情報だけでなんとかしなければならない。百戦錬磨のコンサルタントなら、こんな状況下でも鮮やかに課題解決してみせるのだろうか、などという半ば妄想に近い憧れを覚えた。

そんな訳でこの日から、毎日学校でホワイトボードと睨めっこする日々が始まった。唯一救いだったのは、1人ではなかったことである。幸いにも僕のグループはロシア出身の親友Maxを含めた最高のメンツであり、言いたいことは率直に伝え合うような雰囲気がチーム内にあった。とにかく何をすればいいかわからない状況下ではジタバタするしかないと思い、今までの授業で学んだ理論や概念を片っ端から読み返し、チーム4人で考えた結果をクライアントとスーパーバイザーの教授に発表後フィードバックをもらい、それを元にまた改善を重ねるということを繰り返した。

そして迎えた最終プレゼンの日。プレゼンは大学時代のアルバイトでも留学後にも何度も経験してきたが、この時ほど本気で、この時ほど練習したことはなかった。そして、クライアントと教授の前でプレゼンを終えた時には、チームには完全燃焼に近い清々しさがあった。

それからこのプレゼンが最高評価のDistinctionを獲得し、溢れる思いをチームで飛んで喜んだのは、これから3ヶ月も先の出来事である。

門出

留学を通して得た経験は、今までの人生において大きな分岐点であったことは疑う余地がない。だが、世間一般にイメージされている華やかな留学生活の時間が多いわけでは全くなく、ほとんどは勉強しているか落ち込んでいるか悩んでいるかのいずれかである。

しかし、あの経験のおかげで今の自分があると胸を張って言えるのは、知識や英語力の成長ではなく、人間としての心の成長が背景にあるからに他ならない。

海の向こうには、まだまだ自分の知らない世界が広がっている。僕のグローバルでの挑戦はまだまだ続くし、その様子が皆さんがこれから世界に羽ばたくきっかけづくりとなれば、これほど嬉しいことはない。

非常に長文となってしまいましたが、最後まで見ていただきありがとうございます。
皆さんからいただくコメントは、きっと皆さんの想像以上に僕の支えになっています。まだまだ駆け出しですが、SNSもフォローしてくれると本当に嬉しいです。


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