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「だ・である」か「です・ます」か【小論文の極意】  

 小論文や志望理由書・自己推薦書等において、文末表現を「だ・である」にするのか、「です・ます」にするのか、どちらにすべきなのかということでご質問をいただくことがあります。小論文と志望理由書・自己推薦書における適切な文末表現について考察していきます。



【1】 受験者側のイメージ  

 「だ・である」という文末表現は一般的に論文っぽい堅い表現のイメージがあり、まさに小論文や志望理由書という正式な書類を提出する上で必要な表現だという印象があります。しかし一方で、論文という正式な文章を書くとしても、あくまでもこれは試験であって受験生の立場で書く文章で、読んでいただく採点者は通常は教授陣であったり、社会人であれば上司の管理職の方もしくは外部委託された第三者の企業であったりということになり、その方々に対して「です・ます」の丁寧語を含めた敬語調ではない文章を書くというのは失礼にあたるのではないかというイメージもあります。そのため、「です・ます」という文末表現を選択しておいた方が無難なのではないかという考え方も出てきます。


【2】 採点者側の視点  

(1)多くの論文を読みまくっている  

 採点者側の発想として第1に言えることは、もはや論文や志望理由書・自己推薦書の検査をすることに対して、私たち一般人の想像を超えるほどに慣れてしまっているということです。毎回その年度の問題作成から採点・合否判定に至るまで長い時間をかけながら作業し、合格者の何倍もの不合格者の数を含め一般的に想像される分量を遥かに超える論文や志望理由書を読み込んでいます。特に近年では得点等の情報を当事者に公開しなければならないこともあり、より正確性が問われていますから適当な採点をすることもできません。ましてそのような入試のみならず、普段から研究ゼミのレポートや大学の一般教養での授業のレポートなども読まなければならず、さらには自分自身の研究のためにも多くの論文を読み込まなければならないわけで、そのような中で入学試験の論文答案を採点していくというのはもうあまりにも慣れてしまっていて、そこで「だ・である」という文末表現だから「目上の私に対して失礼な人だ」といったような読み取り方をすることはありません。特にそもそもが論文ですし「だ・である」という文末表現の文章を読むことが大半です。そこにどうこうと感じるようなことはありません。

(2)大半の採点者の器は大きい  

 特に教授やまともな管理職の方々はそのようなことで「目上の私に対して失礼な人だ」といったような小さなことを考えることはなかなかありません。もちろん稀に小さなことを考える採点者もいるかもしれませんが、一般的な教授や管理職というよりもさらにその大学や企業の将来を託された重要な試験においてその合否の判断を任されている方々というのは重要なポジションにいる方々で、そのような方々がちょっとした文末表現によって失礼だというような判断をすることはまずありえません。そのような一時的で表面的な話よりも、大学や自社において将来どのように輝いてくれる人材・人財なのか、その大学や企業にマッチする人間性を持っているのか、といったようなその受験者の本質を見ようと一生懸命になってくれるものです。そこは受験者としても信じておいて良いでしょう。

(3)試験を課す側だからこそ本質を考える  

 そもそも小論文試験における採点者というのは試験問題の作成者でもあります。試験作成のリーダーではないとしても、どのような試験にしようかという会議には出席をし議論をしている方々です。その試験問題を作成する際に何を検査したいと考えて問題を作るのかといえば、それは敬語調かどうかということではなく、やはり人材として人財として将来伸び代がたくさんある「金の卵」かどうかということです。完成された人というよりも、これからの伸び代を考えての人選です。つまり、ちょっとした文末表現で合否がどうこうといったような小さな観点で採点はしないということです。


【3】 表現選択の戦略  

 これまでのように、実際のところ作成者側はあくまでもイメージでしかなく、また採点者側の視点としては文末表現は本質ではないということがわかります。つまり、基本的には「だ・である」でも「です・ます」でもどちらでも良いということになります。そうであれば結論としては受験者としてどちらの表現を選択するのが賢明でしょうか。

(1)小論文の場合  

 小論文という「試験」においては、制限時間および制限文字数という条件がある中でできる限り中身を濃く論述をしていかなければなりません。小論文学習の初心者の場合、制限時間はそんなに気にならないもののなかなか文字数を増やすことができずに苦しむことが多いかもしれません。しかし、知識教養も増え徐々に書ける状態になってくると、むしろ制限時間が短すぎてかつ文字数も少なすぎて書きたいことが書ききれないような状態になります。そこで「です・ます」調で書いてしまうと、例えば「〜でしょう」「〜ではないでしょうか」のようにどうしても文末表現は文字数をたくさん費やしてしまうことになります。そのため、文末表現はあえて「だ・である」調で統一させておいた上で、多くの余った文字数を本質的な主張・説明の部分に費やすようにしておきましょう。そうすることでより中身の濃い深い論文になります。

(2)志望理由書・自己推薦書等の場合  

 志望理由書や自己推薦書の作成においては、制限時間が課せられるということはなかなかありません。条件として課せられるのは、一般的には履歴書のような形で枠が与えられているという状態、他には例えば「A4用紙1枚」という指定がされているような場合があります。また最近ではデジタル手段での提出が広がっていることから、様式以外で特別に時間や文字数等の制限がないということも多くなっています。そのような形であまり強い条件設定がない場合は「だ・である」でも「です・ます」でもどちらを選択しておいても問題はないわけですが、この志望理由書や自己推薦書というのは小論文と比べるとかなり採点者に対する距離感が近くなり、直接的に人間性をアピールする書類になりますから、そのような観点で一般的には「です・ます」調を選択しておいても良いでしょう。

 ただ、与えられた枠や条件と比べて自分自身が伝えたい内容がかなり多いという場合は、(1)と同じように中身を濃く深く書いていくという観点から「だ・である」で表現しておいてもまったく問題ありません。この志望理由書や自己推薦書はやはり個別の様子、つまり自分自身と受験先との関係性によってどちらの方が適切かという状況が変わってきます。あくまでも原則としては「だ・である」でも「です・ます」でもどちらでも良いと考えておいて良いでしょう。


【4】 絶対的なルール  

 ここまでで「だ・である」調か「です・ます」調か、どちらを選択するべきかということで考察をしていきましたが、どちらの選択をするとしても、必ずどちらかの文末表現に統一させておかなければならないということだけは絶対に頭に置いておいてください。

 小論文の添削指導をしていると特に「だ・である」と「です・ます」が急に入り乱れてとんでもない文章に仕上がっているということがあります。書き手としては1つ1つの文に精一杯になりすぎて、その時その時の考えに集中しすぎることで文末表現の統一感を振り返る余裕がないことからそのようなことが起こってしまうのかもしれません。しかし、読み手としては文と文のつながりがいかに強固なものかによって理論への理解が深まるもので、1文と1文で文末表現がまるで違うものになると強烈な違和感が出てきて、文章の中身が頭に入ってこなくなってしまいます。書き手の意識と読み手の意識が大きく乖離する状態になってしまいますから、どちらの表現だとしても選択した表現で統一させておくようにしましょう。

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