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なぜ誰も、AI生成画像の気持ち悪さに言及しないのか

わたしは最近noteでエッセイを書き始めた。
エッセイとは文章のことだから、記事に画像を載せる必要はない。とはいえ画像がない状態で投稿すると、一覧表示にしたときになんだか寂しいことがわかったので、画像をつけることにした。画像について自分にはこだわりがなかったので、生成AIに画像を作ってもらって、それを使うことにした。
noteをカチャカチャいじっていることに気づいたのだが、noteには生成AIによる画像を使用した記事が案外多い。noteで写真を選ぶオプションの中にも、AIを使用する選択肢がある。思えば、TikTokにもAI画像を使ったものがかなり増えた。
そこで思うのは、やっぱりAIが生成した画像って気持ち悪いな、という今さらな感想である。
だけどAI画像の気持ち悪さについて言及しているのは、自分の観測範囲だと映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんくらいで、ほとんどの人はこの気持ち悪さに甘んじて、受け入れているように見える。

AIが生成した画像が気持ち悪い理由はいくつかある気がする。
その一つには、人物やキャラクターの表面のテクスチャーがあまりにツルツルで生命っぽさがないこと。プログラムによるレタッチなどの画像処理については、わたしは門外漢なのでわからない。だがあのプラスティックのような質感の人間やキャラクターが、笑ったり泣いたりと「人間らしい」表情を見せているのは、気持ち悪くて仕方ない。
それを説明するには、いわゆる「不気味の谷」現象についても言及しなければならない気がする。ロボットなどが進歩することで、非人間的なフォルムから人間的なフォルムに近づくにつれて、ある境界で猛烈な嫌悪感を抱いてしまうという現象である。詳しくは調べてください。
わたしは要するに、AIが「人間らしさ」を中途半端に獲得しているさまに対して、不気味の谷的な気持ち悪さを抱いているのだと思う。

この先、AIが進歩することでやがて独立した自我を持ち、人間と共存関係を結ぶ時代がくるかもしれない。そのときわたしたちは、AIをひとつの「人種」として受け入れられるだろうか。揶揄や差別なく、AIと共生していくためには、AIが作り出すグラフィックの気持ち悪さについてとやかく言うのはアウトである。
そこまで考えたところで、わたしはAI生成画像の気持ち悪さについて話すことが、見た目に由来した差別の構造となんら変わらないのではないかと思いいたり、閉口してしまった。

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