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二つの声と語り手 ー ガール・イン・レッド 「Stay - Spotify Singles」


   Spotifyプレイリスト〈Lorem〉でこの曲が流れてきたとき、タイトルを見ずに聴いていたわたしは、プリコーラスが終わるころになってようやくこれが、ガール・イン・レッドによる、キッド・ラロイジャスティン・ビーバーの曲のカヴァーであることに気がついた。いまグローバルで最もSpotifyで再生されているサマーアンセム「Stay」は、イントロのドリーミーなピアノの響きによって寂しい秋のバラードに替わる。

■ジェンダーロールの破壊

 原曲では、80年代風のシンセによる短いイントロに続いて、いきなりラロイによるコーラスから始まるのだが、最初の2行でこの曲の主題は既に提出されている。

   ぼくは同じことをしてる きみにはしないと言ったこと
 変わるって言ったのに ぼくにはムリだとわかってるけど

 語り手の男性は、過ちをおかして愛する相手の女性に許しを願っている。「変わるって言ったのに」、「きみにはしないと言ったこと」を懲りずに繰り返す。しかも、「ぼくにはムリだとわかって」たという。男性の視点では、罪悪感と変化する意思を表明しているものの、女性には我慢を続けてもらうつもりらしい。
 2010年代以降のドレイクに代表される、男の泣き言ラップといわれるジャンルがある。彼らの歌詞は時に「女々しい」とも形容されたが、「Stay」の語り手の内省することで抑圧者たる自身から責任を反らそうとする態度はむしろ男権的であり、ジェンダーロールの押し付けでもある。

 ところが、この曲をカヴァーしたガール・イン・レッドことマリー・ウルヴェンがレズビアンであることを思い出したあなたは、そんな性別の二元的な問題や文脈すら溶解していくのに気づくだろう。

 わたしは同じことをしてる あなたにはしないと言ったこと
 変わるって言ったのに わたしにはムリだとわかってるけど

   男性視点だったはずのことばは、ウルヴェンが歌いすすめるごとに意味とニュアンスを変えていく。
   もしかすると、「語り手がヘテロ男性からレズビアン女性に変わっているが、恋愛における間違いと罪悪感についての歌という意味では、ジェンダーは関係のない普遍的なものだ」という意見があるかもしれない(※1)。しかし、この2通りの歌の差異が単なる人称の違いだと決める前に、もう1つ考えておくことがあるように思う。
 それは、この曲を歌っている「声」についてである。

■二つの声

 話をいったん、原曲の「Stay」に戻そう。

 まず、この曲はイントロから1番のコーラスまではラロイによって歌われる。彼のヴォーカルを聴いていて気になるのは、歌詞の文頭の入り方だ。「きみにはしないと言ったこと」の最後の「would」がまだ聴こえているのに、次の「変わるって言ったのに」が始まっている。ラロイはラッパーなので、ヴォーカルを作曲ソフトのグリッド上で編集するのは当たり前かもしれないが、こんなに前に喰い気味な歌い方では「オレはこう思ってるんだ、だから許してよ!オレは!オレは!!」と、唾を飛ばしながらまくしたてて弁明をしているようにきこえる。
 一方でビーバーが歌う2番のヴァースは、息継ぎやわずかなリップノイズも聴こえるほどに親密で、1文1文エモーションを込めたような歌い方だ。

 きみを置き去りにはできないよ
 だってきみはぼくを手ぶらで帰したことがないんだからさ

と、文末と文頭が被ることなく歌われるそのことばは非常に誠実にきこえる。
 そんな2人の声は、2番のプリコーラスで初めて合流する。

 おーうおー (おーおおーうあー)
 きみがここにいてくれないと、ぼくはぐちゃくちゃになっちゃうんだよ

   ラロイの主旋律、ビーバーのハーモニーでコーラスが絡み合うように歌われることで、この2人の語り手はスタンスにこそ違いはあれど、複数の「ぼく」は同じ立場にいることが強調されている。さながら彼女に愛想をつかされたという共通の境遇をもつ「ぼく」たちが、深く傷んだ心を癒すための、弱音混じりの湿っぽいボーイズ・トークのようだ。

   次に、ガール・イン・レッドによるカヴァー版の「声」についても考えてみる。こちらのヴォーカルはウルヴェン1人だが、代わりに深いエコーがかかったもう1つのウルヴェンの声がもう1人のヴォーカルの役割を果たしている。
   ラロイ&ビーバーの原曲が複数の「ぼく」によって歌われたように、こちらのヴァージョンも複数のウルヴェンの声によって歌われる、複数の「わたし」についての歌なのかというと、ちょっとわからない部分がある。
   その違和感は、イントロ明けのコーラスと1番のヴァース部分にある。

   わたしはあなたにここにいてほしい、(あなたにここにいてほしい、ねえ)
   あなたにわたしの気持ちは伝わらない気がする
 (あなたがここにいてくれないと、わたしはぐちゃくちゃになっちゃうよ)

   注目すべきは括弧でかこんだ部分である。ここは、ウルヴェンが主旋律を歌う声とは別の、深いエコーがかかった方のウルヴェンの声である。
   だがしかし、原曲ではこの部分はキッド・ラロイによって文と文が重なるくらいにひと繋ぎに歌われていた。つまりガール・イン・レッドのカヴァー版では、ひと続きの歌詞の中で、意図的に歌声が使い分けられている。本来1人で歌われていた歌詞を、あえて2つの声を使い分けて歌うことで、実は「わたし」以外の語り手がもう1人いるのではないかと考えさせられる。
   もう1人の語り手とは誰か。ラロイ&ビーバーの原曲でラロイが演じる「ぼく」に対するビーバーが別の「ぼく」だとすると、ウルヴェンのヴァージョンにおけるもう1人の語り手は別の「わたし」には該当しない。だとすれば、もう1人の語り手は「あなた」、すなわち「わたし」にとっての恋人の女性に登場人物は絞られる。

   このアレンジによって、先ほどの歌詞はまったく別のニュアンスを持ってくる。コーラス部分では、「わたし」による「わたしはあなたにここにいてほしい」という声と、それに続く「あなた」による「(わたしも)あなたにここにいてほしい、ねえ」という声との対話にきこえてくるのだ。
   また、ヴァース部分でも「わたし」による「あなたにわたしの気持ちは伝わらない気がする」という声と、「あなた」による「あなたがここにいてくれないと、わたしはぐちゃぐちゃになっちゃうよ」という声との間に、すれ違いが生まれているのに気づく。

   このしくみのおかげで、ガール・イン・レッドによる「Stay」は、ただの普遍的な失恋ソングからまぬがれている。

■窓辺という場

   ところで、キッド・ラロイ&ジャスティン・ビーバーの「Stay」とガール・イン・レッドの「Stay」を聴き比べようと、Spotifyでこの2曲をプレイリストに入れて聴いているうちに、1つのことに気がついた。それは、どちらもジャケットが「窓辺」で撮られているということだ。

   窓といえば連想されるのは、ホン・サンスの映画『逃げた女』。日本では今年公開されたこの映画は、主人公の女性が数人の友人を訪れては会話をするだけの作品なのだが、その会話の場所が「窓辺」であることが多かったのだ。窓を部屋の中から見ると、外の風景が長方形の窓枠によって切り抜かれて見える。そして、窓枠によって囲われることによって、その長方形の外側に対する興味をさそう。
   また、昨年のオリヴィア・ワイルドの学園コメディ『ブックスマート』でも、1番笑ったのは、終盤にレズビアンの高校生の主人公・エイミーがクラスメイトのホープと親密な関係になるのを、もう1人の主人公・モリーが窓越しに見るというシーンだった。窓は、建物の内と外とを区切る境界でもある。

   さて、ラロイ&ビーバーの「Stay」のジャケットでは、その汚れた窓の向こう側に見えるのは高層マンションだろうか、蛍光灯の青白い光が差し込む窓の内側で、ラロイは所在なさげな表情を見せている。半袖のTシャツと青い光が熱帯夜を思わせるこの写真から、わたしたちは窓の外側に見える建物にいるかもしれない、ラロイの相手の女性の影を想像することができる。
   一方、ガール・イン・レッドの「Stay」が収録されている「Spotify Singles」のジャケットでは、直接「窓」は写っていないが、外からあたる優しい陽光と横に積まれた本から、これが初秋の夕方、家の窓辺であることが示唆される。ウルヴェンは寂しさもポジティヴさも入り混じったような微妙な表情で、窓の外を見やる。そこに庭があるのか、人がいるのかなどは、カメラフレームという窓枠ではないもう1つの「枠」によって視覚情報を制限されているため、目視することができない。しかし、「あなたにここにいて stay ほしい」のはきっと「わたし」だけではないのだから、内と外を「区切る」窓は、決して「断絶」を意味してはいない。

   それにしても、ウルヴェンはセーターとニットの帽子と、なんて秋のファッションが似合うのだろう。ニットの帽子はいまや彼女のトレードマークだと思うし、これまでのリリースのアートワークの色味も、オレンジ、赤、緑など、秋を思わせるものが多い気がする。「we fell in love in october」(2018年)で、「わたしたちは10月に恋に落ちた、だから秋が好きなんだよね」というフレーズが歌われるが、彼女のこうしたファッションやアートワークで、曲と現実が重なる二重性の整合感が生まれる。歌はことばだけでなく、創作という枠組みを越えてその感情をもらすのだ。

(3929字)

※1 ポップ・ミュージックだけでなく『燃ゆる女の肖像』など映画についても最近よく見かけるようになった、この「セクシュアル・マイノリティ関係ない普遍的な恋愛」という論調に対する違和感については、ライターの木津毅氏も「TURN」のガール・イン・レッド最新作『if I could make it go quiet』のレヴューで書いている。

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