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50年前、祖父はエベレストを登頂した

厳しい暑さが残る2020年8月30日、家族で奥多摩を訪れた。
日本山岳会の東京多摩支部が主催する「日本山岳会エベレスト登山隊1970 初登頂50年節記念写真資料展」に参加するためだ。

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今からちょうど50年前の1970年、アルピニストである私の祖父は日本初のエベレスト登頂を果たした登山隊の一員だった。

祖父が山登りをしている人ということはもともと知っていたし、小さい頃にはよく山に連れて行ってもらった。
しかし、エベレスト遠征時の話を聞くのは初めてであり、実際に目の前で話を聞いていると過酷さとその中にある魅力がひしひしと伝わってきて心に響いた。

印象に残ったことや感じたことをここに書き留める。

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▲50年前の出来事をつい最近のことかのように
楽しそうに話していた祖父の姿が印象的だった。


山での生活

・エベレスト街道キャラバン
隊員はネパールの首都カトマンズを出発。いくつもの集落を通り、高地に住む民族との交流を重ねながらベースキャンプを目指す。ここまで1ヶ月以上かかったという。

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ここで鍵になるのが登山隊の荷物を運ぶ地元のポーターだ。上の写真にもあるように、地元の人にとっては収入が見込める仕事のようだ。
タバコが大好きで一日二本支給されるというような話も聞けて面白かった。

・ベースキャンプ
エベレスト登山の基地となる場所がベースキャンプだ。
現在は登山者が増え、多いときには2000人以上になるという。wifiが整備されるなど快適な生活が送れるそうだ。
当時もおでん屋台、トアターテント、マッサージ店等が出現していたとのこと。お酒を飲むと迷子になって自分のテントに帰れないというユーモアな話もあるそうだ。
ポーターと同様、このベースキャンプでの仕事は現地の人にとって稼ぎどころになっている。

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▲散髪する祖父。全然注文通り行かなくて困ったらしい笑

・シェルパ
シェルパはネパールの少数民族で、登山隊のガイド役として知られる。
今もなお親交のあるシェルパとは日本やネパールで時折顔を合わせると祖父は言っていた。

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真っ先に感じた疑問が言葉の通じないシェルパとどうやってコミュニケーションをとるか、ということだった。
当時は現代のようにGoogle翻訳もないしさぞかし大変なのではと感じた。ベースキャンプで騎馬戦をしたり酒を呑み交わす中で親交を深めつつコミュニケーションをとっていたと祖父は言っていた。
言葉が通じなくとも杯を交わせば距離が縮まる。1年ほど留学に行っていた自分も感じたことだが、これは長年変わらない、ある種正しいものだと言えそうだ。

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死と隣り合わせの日々

世界一の山を登頂することは簡単なことではない。このことを実際の体験を聞くことによってより強く実感した。

とある隊員が高山病で亡くなった。隊員の中でも最も元気で大食漢な奴だったと祖父は言っていた。
遺体は氷河に安置された。氷をノコギリで切った祭壇のそばで隊員たちは涙を流し、彼の出身大学である慶應義塾大学の応援歌「若き血」を歌ったという。
彼の遺影と所持していたお守りは日本人として初めて8848メートルの頂上に立った松浦・梅村両隊員の手によって頂上の雪に埋められたという。

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展示スペースの一角には、遭難したと思われる人間の死体写真があった。
寒さ故に遺体は肌がきれいに残っている状態で生々しかった。
身元は明かされていないという。チベット側で見つかったものであるが、死体の捜索願を出しても中国は何も動いてくれないのだという。
政治的・地理的状況が関連してくることは非常に興味深い。

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▲滑落し九死に一生を得た話もしてくれた

冒険心溢れる登山家の仲間

共にエベレスト登頂を果たした登山隊の仲間を祖父は懐かしそうに語る。50年も前のことであるので、存命の方も少なくなってきているそうだ。

頂上に到達した2人のうちの1人が植村直己さんだ。何十人もいる登山隊の中で頂上にいけるのは限られた人数で、誰が行くかを隊員で話し合って決めたという話を祖父はしてくれた。
植村さんは世界初の五大陸最高峰登頂者であり、1978年には北極点に到達した。世界初の「南極・北極・エベレスト登頂」を目指し南極到達を志すものの、同時期のアルゼンチンではイギリスとのフォークランド紛争下であったため南極観測隊に合流できなかった。
世界史のテストのために単語として覚えていただけの出来事が、こうして1人の人生に影響を与えていたと知ることで歴史がグッと身近に感じられた。
体が鈍ってしまうとアラスカのマッキンリーへと単独で向かうがそこで消息不明となった。1984年のことだった。
植村さんのWikipediaを見ていると自分のワクワクする方向に進む生き様がひしひしと伝わってくる。自分もそんな人生を歩みたい。

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地球最北の村でエキスモーとして悠々自適な生活を送り、デンマーク政府にも保護されていた大島育雄さんという方もいた。

自らの冒険心に従って生きる登山家仲間の話を聞くことはとても興味深く、人生が広がった気がした。


おわりに

小学生の頃からいつもと違う道で帰ってみたかったり、高校では自転車をこいで遠くまで行ったり、大学では世界中を旅して街をふらふら歩いたり...。
まだ見ぬ場所・景色を追い求める本能的なものは、祖父の冒険心を受け継いでいるのだと感じた。

祖父は人とのつながりをとても大切にする人で、今でも世界中に山を通じてできた仲間がたくさんいる。
グリーンランド遠征で出会ったスイス人の冒険家とは今でも家族ぐるみでの付き合いがあり、自分も何度かお邪魔させてもらったことがある。

冒険心に素直に従いつつ、その中で出会った人とのつながりを大切にしながら生きていきたい。

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