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【題未定】戦争を知らない子供たちだった老人が語る滑稽さ【エッセイ】

 この記事を書いているのが2024年の8月14日、明日の8月15日は79回目の終戦記念日を迎える。無理矢理に数えてみると令和6年は昭和99年ということになるそうだ。(ちなみに2025年に和暦を用いた官公庁等のシステムで異常をきたす可能性のある昭和100年問題が眼前に迫っている。)

 8月に入ると毎年のように地上波や新聞記事には戦争を振り返る特集が溢れかえる。昨今はウクライナやイスラエルの情勢と絡めて、過去の反省を国民や政府に促すような記事は少なくない。戦争を煽ったのが主に自分たちマスコミであるにも関わらず、他者にその責を半世紀以上押し付け続けてなお、あたかも生まれた時から無垢な平和主義者だったような面をする彼らの厚顔無恥さには呆れを通り越して尊敬の念さえ抱くほどだ。

 そんな反戦記事の中でも半ば定番化したのが老人の語り部たちのコメントである。戦中派とされる老人が戦争を知らない子供たちに戦争の悲惨さ、そして非戦、反戦を説くのはお決まりのスタイルだ。

 こうした記事は私が子供のころから存在していた。あのころも老人たちが戦争語りをする記事、それに影響を受けた教員が学校に戦中老人を招くイベントは少なく無かった。ところがよく考えてみると不自然な点がある。私の小学校時代はすでに30年前、あの当時老人だった戦中派は今も健在だというのだろうか。

 当然そんなはずはない。戦後79年を経過した現在、終戦時に中学生だった場合でも90歳を超えている。まして従軍した年齢の人間となれば100歳を優に超えており、存命だとしてもまともにコミュニケーションが取れる人はほとんど存在していないのが現実である。ところが現在、戦争を語る70~80代はどんな人かというと、終戦時に乳幼児か、あるいは小学生ぐらいだった人達だ。

 果たしてそんな年若かった彼らに戦争時の記憶が本当にあるのだろうか。私は1981年生まれであり、昭和やバブルを一応経験してはいる世代だが、正直その当時の状況を理解していたかというと甚だ疑問だ。その後の成長過程での知識の獲得でうっすらとした記憶を補強した可能性は極めて高く、私の昭和やバブルに関する発言は決して1次情報として信頼できるものではない。

 先の自称戦中派の諸兄においても同様で、彼らは戦後教育を濃密に経験した世代でもある。彼らの戦前、戦中の記憶自体を否定するつもりはないが、その真偽やバイアスに関しては大いに疑うべきものであるのは間違いないだろう。そんな「戦争を知らない若者」であったはずの彼らが「戦争を知る老人」として「戦争を知らない若者たち」へ語り部を騙る姿は極めて滑稽であろう。

 言うまでもないことだが、私は戦争賛美や戦前戦中を無条件に肯定すべきと主張しているわけではない。そんなことはSNS界隈に跋扈する自称保守派に任せておけばよい。ただ、もはや戦後80年を迎えようとしている時代に、不確かな似非1次情報を学びとすることに意味はなく、きちんとした資料や歴史学の考察に基づいた学びを行うべきでは、と言いたいだけなのだ。

 昨今は学校教育においてもそうしたスタンスに近づきつつある。極端な左翼系教員は鳴りを潜め、自虐史観を押し付けて謝罪と賠償を戦後世代に強いる教育を行う学校はほとんど存在しない。しかし残念ながらマスコミや報道においてはいまだ旧態依然とした状況は続いているようだ。

 「真の戦後」とはかつての自虐史観や、その逆に極端な反動保守とは異なる客観的資料に基づく冷静な考察と分析(といっても自国中心史観からは逃れられない)という視点を国民だけでなく、マスコミが持ち得ることによって訪れるのではないだろうか、と思うのだ。

 せめて「戦争を知らない子供たち」だった老人の語りを過大評価する報道は慎んでもらいたいと切に願う。

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